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キリストの終末預言(10) 世の終わりの恵み

マタイ25:1-13

いつ起こるのか誰にも決して知られることがない、天に引き上げられるという出来事を、どのように待ち受けたらいいのでしょうか。しかもそれが本当は誰に起こるのか、いつどうなるかわからないままでいる不安を解消できる、はっきりとした基準が、弟子たちに語られます。

ただし、譬で、というところがちょっと難しいところです。マタイの福音書13章でも譬による天国の教えが多数ありましたが、イエス・キリストに繰り返し問い直す弟子たちにだけ、その意味が明らかにされていました。尋ねに来ない人々は、謎のまま、取り残されてしまいます。

「天国の奥義」を示す譬は、譬が表している事柄を実体験で知っている人にはすぐに「あのことだ」とわかるようなものなのです。譬えられていることが未経験の人には、話を聞いただけではもちろん、説明を聞いても譬の内容が理解できないままに終わる可能性が高い、という性格の教えだと考えられます。

ここから語られている「天国の譬」もそれと同じように考えられます。マタイだけが記している、弟子に向けての教えの記録なのです。でも、13章の天国の譬は、眼前にいるイエス・キリストを知っているだけで十分だったかもしれませんが、ここは、再臨のイエス・キリストを知ることが前提になります。つまり、弟子たちが復活以後のキリストを知ってようやく理解できることだったかもしれません。

一つ前の段落で、「目をさましていなさい」との警告がありました。目が見えなかったのが見えるようになった、目からうろこの経験をするはずの弟子たちに、譬による教えが続きます。

花婿を迎えに出る十人のおとめの譬

譬は当時のユダヤ教に基づく結婚式を前提にしているようです。ですから譬に出てくるおとめは花嫁ではなさそうです。十人もいるのですから。このおとめは何を譬えているのでしょうか。一方、花婿は弟子たちには明らかにキリストのことを指しているとわかったでしょう。もともと、このオリーブ山での終末預言の教えは、「あなたがまたおいでになる時」について尋ねたことで始まったのでしたから。

おとめたちは二つのグループに分かれます。思慮深いおとめと思慮が浅いおとめ。油を使った灯りを用意しているのは、迎えるべき花婿が夜に来ることが分かっていたのでしょう。灯りを用意しながら、油を入れておくか、入れないままにしておくか。油を用意しているだけで思慮深いと言うにはあまりに普通のことで、油を用意していないことを思慮が浅いと言うにはあまりにも間抜けな感じです。

見かけは、どちらも灯りを持っていて、同じ花婿を待っている。しかも、どちらも花婿が来るまで居眠りをしてしまいます。直前の教えで目をさましていなさい、と言われている弟子たちとは、どうも違います。この二つのグループは、見かけだけでは区別はできなかったでしょう。

問題は、手に持っている灯りの中身でした。一人ずつそれぞれに油を入れているか、入れていないか。使う時になって初めてわかることです。

キリストの復活後、弟子たちがこの譬を思い起こしたとき、このおとめたちに何を見出したでしょうか。

思慮の深い・浅いの違い

譬の後半、花婿が到着するところから問題が発覚します。そこで目が覚めたおとめたちは、夜中なので灯りを整えて花婿を迎えようとするのですが、油を用意していなかったおとめたちが「明かりが消えかかっている」と言って、油を乞い求めます。でも、思慮深いおとめたちは断ってしまうのです。思慮深い彼女らは、油を分けてしまったら途中で油が切れてしまうことが分かっていたからでしょう。

お皿に芯を置き、油を浸す、小さな灯りだったのです。一人一人が備えていなければならない灯りでした。

外面的には皆同じようでも、内面は全く違う人々のグループが存在することを、その違いは、一人一人が備えるべき性格のもの。思慮が「深い」「浅い」の違いは、個人の心の中の問題が、灯りの油にたとえられているようです。

灯りを持っても油を用意しない愚かさ。オリーブ山説教の前に、イエス・キリストが宗教者を非難する言葉の中にも語られていたものでした。

盲目な案内者たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは言う、『神殿をさして誓うなら、そのままでよいが、神殿の黄金をさして誓うなら、果す責任がある』と。 愚かな盲目な人たちよ。黄金と、黄金を神聖にする神殿と、どちらが大事なのか。
マタイによる福音書23章16-17節

神殿で繰り広げられる大規模な宗教行事や宗教規則は形だけで、神の心に触れずに行われていたことが、非難の対象でした。「思慮の浅いおとめ」は、見かけはきちんと備えていたのかもしれませんが、中身が伴っていなかったように描かれていました。当時の、形骸化した宗教を表している譬だったと思えます。

実際、旧約聖書にしるされる数々の預言の通りに来臨し、活動していたイエス・キリストを殺してしまったのも、彼らの盲目性によるものでした。

一方、弟子たちは、不完全な理解ながらも、イエス・キリストを受け入れ、従っていました。しかしその不完全性は、キリストの復活で正されます。死人の中からよみがえったイエスは特別な人間以上のかた、神の御子であることを知るに至るのです。

オリーブ山の説教を聞いた弟子のひとりだったヨハネは、生涯の終わりごろに書いた手紙の一節に、こう記しています。

あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。
ヨハネの手紙第一2章27節

神の御子イエス・キリストに対して開かれた目を再び閉じることがないように、というヨハネの戒めです。思慮深いとは、神によって目を開かれてイエスが神の御子キリストだと知ることです。よくよく旧約預言を思いめぐらせるなら、その確かさが身に迫ってくるだろうと思えます。

目をさましていなさい

譬の中で気になるのは、思慮の深い、油を用意しているおとめも眠っている時がある点です。イエス・キリストの再臨前に、思慮深いおとめたちに譬えられている人々も、一時期、眠ってしまうのです。それこそ、油を用意していない思慮の浅いおとめたちと一緒に、です。でも、花婿が帰ってくる直前、呼びかけがあって目覚めます。そして、油を用意してあかりを整えていたおとめたちは、婚礼の会場に入ることができます。

油を用意していなかったおとめたちは、油を買ってきたほうがいいと言われてその場を立ち去りますが、その間に花婿は帰ってきます。あわてて、外から戻ってきたおとめたちが、すでに閉ざされた戸を開けてもらおうと呼びかけるのですが、もう開けられることはありませんでした。花婿の言葉が冷たく響きます。「あなたがたを知らない」。油を用意していなかったおとめたちが、結局、油を買うことができたのか、この話には何も言われていません。用意できなかったのだろうと想像はできますが。

見かけ上、油まで用意していたおとめと思慮の浅いおとめは、区別がつかない生活をしている人たちです。

この教えがなされた二日後の、ゲッセマネの園での出来事を思い出します。イエス・キリストが捕縛される直前、あまりの悲しさに弟子たちを連れていって祈る場所です。特に三人の弟子が、一緒に祈るようにと、園の奥まで入るのです。ところが、彼らは皆、眠りこけてしまいます。彼らにかけられたイエス・キリストの言葉は、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」(マタイ26:40-41)でした。

キリストは、人の弱さを知るお方です。そして、その弱さゆえに、キリストを全く知らない人々と同じような生き方に陥ってしまっている、眠っている状態の弟子たちも、その時が来れば、目覚めさせられ、婚礼の場に入れられる。そのように、私は理解します。確かに、イエス・キリストが神の御子であって、そのキリストが自分のために十字架にかかってくださったことを信じて受け入れた人は、その心に、あかりと油と、ととのえられているのです。

これが、世の終わりにあらわされる神の恵みだと信じます。

では、弟子たちは、一度キリストを信じたなら、そのあとの生活がキリストの教えに従っていなくてもよい、ということなのでしょうか。ただ安心して、神のさばきの時にも救われるのだから、と、この世と歩調を合わせた生き方を続けてもいいよ、と、教えられているのでしょうか。

そうではないことが、最後の勧めでわかります。「目をさましていなさい」。これが結論なのですから。そして、無理やり従わせられるのではなく、こんな恵みが与えられているのだから、なおさら、目をさましていかなきゃ、と思うのです。

キリストの弟子たちは、従わない者への神の怒りを恐れながら教えを守ろうと頑張る者ではありません。ただ、「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)と語られたイエス・キリストと、自らすすんで歩んでいくように、罪を赦してくださっている神を畏れ愛する者です。そのことに目をさましていることが求められているだけなのです。

もちろん、身体や心が疲れている時には、ゆっくり眠って疲れをいやすことも忘れないように。


マタイによる福音書25章1-13節

1そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。 2その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。 3思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。 4しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。 5花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。

6夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。 7そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。 8ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。 9すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。

10彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。 11そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。 12しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。

13だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。


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