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キリストの終末預言(8)―天に引き上げられるという福音―

マタイ24:34-41

天に引き上げられる。天にも昇る気持ち、いや、気持ちだけではないのです。

でも、すべての人、ではないみたい。なぜ?

だいたい、天に引き上げられる、という出来事のスケールが大きすぎるので具体的にイメージするのが難しいのですが、それは、神さまが大きすぎてイメージするのが難しい、ということにつながるように思います。

それで、神さまはいったい何を考えているんだろう、いったい人間に理解できるんだろうか、という疑問も生まれるのです。

神さまの側からしたら、これだけあなたのわかる言葉でメッセージを発出していることに気がついてよ、というところかもしれません。

今回取り組みたい箇所は、マタイによる福音書24章34~41節、イエス・キリストの終末預言の続きです。

よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。 天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。 その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。 人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。 すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。 そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。 そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。 ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。

滅びる・過ぎ去る

「この時代は滅びる」「天地は滅びる」と、物騒な言葉が語られます。先には、「世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起る」(24章21節) と言われていたのですが、大きな患難どころではなく、天地が滅びる、というのは、いったい何が起きるの? と不安が掻き立てられてしまいます。

新しい訳の聖書では、「過ぎ去る」が使われています。

滅びる、と、過ぎ去る、では印象が随分と違います。この時代が滅びる。この時代が過ぎ去る。

もうひとつ。「過ぎ去るように」とイエス・キリストが祈る場面があります。十字架にかけられるため捕縛される直前のこと。ゲッセマネの祈りと言われる場面です。

そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。
マタイによる福音書26章39節


原典のギリシャ語では同じ「過ぎ去る」という言葉が使われています。この「杯」は、神ののろい、怒りが罪に対して注がれることを指しています。つまり、十字架の死は、罪に対する神ののろい、怒りを受けることでした。それを過ぎ去らせてくださいと、イエス・キリストが天の父に祈るのです。

イエスが十字架にかけられた日は、ユダヤ人の大事な祭、「過越の祭」ちょうどその時でした。この祭は、紀元前15世紀にイスラエルがエジプトでの奴隷状態から脱出し、解放されたことを記念するもの。

イスラエルを解放しようとしないエジプトに対して神が十の災いを与えます。最後がすべての家庭の長子の死。けれど、その災いが「過ぎ去る」ための方法が神からイスラエルに指示されていました。家の戸口のかもいと二つの柱に犠牲の子羊の血を塗るのです。「死」は、塗られた血を見てその家を過越し、過ぎ去り、その家の長子は死ななかったのです。

イスラエル人だけではなく、もしその方法に従っていた人がいたら、その家は、のろいが過越して行って、死を見ることはなかったのでした。

「過越の祭」には、そのような歴史があります。

そして、「杯を過ぎ去らせてください」と祈ったイエス・キリストは、結局、のろいの過越しのための子羊の役割を担うことになります。つまり、キリストの門の中に入る者は神ののろい・怒りが過ぎ去らせられるのです。

この時代が過ぎ去り、新しい時代が来る。それは光に満ちた将来を予告する聖書のメッセージです。ただ、「過ぎ去る」を「滅びる」と訳すことになるだけの大患難や大変な出来事が、この時代の終わりにあることも、預言されているのです。

「取り去られ」る者が天に引き上げられる者

ここの終末預言の中でイエス・キリストは、ノアの時代にあった洪水に言及します。(創世記6章~9章)

全地を覆ったと言われるこの洪水。個人的には、なかなかこの話題を取り上げることができませんでした。

インドネシアでインド洋大津波が2004年12月26日にあり、2011年3月11日の東日本大震災でも大津波があったからです。どちらもマグニチュード9レベルの地震によって引き起こされたものです。この「ノアの洪水」は、どうしても大津波のイメージが重なります。

ところが、ふと気がついたのは、イエス・キリストの終末預言の中で、ノアの時代の洪水で言われている「取り去られ」る人々は、天に引き上げられる人々を指しているようだ、ということでした。

ノアの時代の洪水では、箱舟に乗り込んだノアの家族だけが救われ、箱舟をあざ笑い、入ろうとしなかった人々が滅びます。今の前の時代にあったことです。その記録に沿って考えると、どうしても、「取り去られ」る人々は、滅びる人を指しているとしか考えられません。

でも、その「前時代」的先入観を捨てて見ると、新約聖書のいろいろな個所から組み立てられる預言の中では、ここで「取り去られ」る人々とは「天に引き上げられる」出来事、携挙される弟子たちの事だと考えられるのです。

その根拠となる新約聖書の箇所が、つぎのところです。パウロの手紙の一つ、テサロニケ人への第一の手紙から。イエス・キリストの昇天から約20年後に書かれています。

わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。 すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、 それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。 だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。
兄弟たちよ。その時期と場合とについては、書きおくる必要はない。 あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。 人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。 しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。 あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。 だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである。 しかし、わたしたちは昼の者なのだから、信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう。 神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。 キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。 だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。
テサロニケ人への第一の手紙4章15節~5章11節


「主の日」が来ることに関する、人々の不安を取り去るために書かれた手紙でした。この世に滅びが襲ってくる日。神の怒りが現される「主の日」です。「産みの苦しみ」とあるように、新しい命が生み出される前の苦しみでもあるのです。

この記述は、イエス・キリストの終末預言に符牒します。「産みの苦しみ」(マタイ24章8節)と言われていたのです。

聖徒イスラエルとキリストの弟子

問題は、キリストの終末預言は、「神の怒り」のことなのかどうなのか、です。

試練によって聖徒たちをさらにきよめるため、という患難があるのも事実だからです。では、この世の終わりに臨んで、新しい時代を迎えるにあたって、特に大きな患難できよめられなければならない聖徒たちとは、どのような人たちなのでしょうか。

それが、イスラエルだと考えられるのです。

オリーブ山でイエス・キリストの終末預言を聞いている数人の弟子たちも、その一員でした。しかし、預言者モーセに導かれた出エジプトを経て民族としての一致した歩みを始めたイスラエルは、その最初の過越しの恵みにあずかったものの、イエス・キリストの過越しの恵みは、民族としては受け損ねたまま、今に至っている状態です。預言されていたキリストを拒否したこと、神を拒否した事への責任は問われなければなりませんでした。そこに神の怒りが現わされるのです。

この世の終わりは、イスラエルが待ち望んでいたキリストが、イエスだったことを知り、受け入れるときになるのだろう、と思われます。その聖徒たちイスラエルのために、患難の期間は短くされ、最後まで忍耐する者は救われるのです。

一方、パウロの手紙にあったように、怒りに合わせられないで引き上げられる者もあるのです。言ってみれば、特別ではない聖徒たち、ということでしょうか。キリストの門をくぐった弟子たちです。

エジプトを脱出した時のイスラエルが、門に子羊の血を塗ったように、それを聞いて同じようにした人々も、死を免れました。過ぎ去っていったのです。それが、特別ではない聖徒たち。キリストの門をくぐったというだけで聖徒とみなされた人々です。

人々が平和だ、安全だ、と言っているときに、突然おきる出来事。患難は、当然まだ始まっていないだろうと考えられます。弟子たちは、その時点で、天に引き上げられる。これは恵み以外の何物でもありません。

残念なことですが、すべての人がそうしたわけではありません。だからこそ、多くの人にこの知らせを伝えなければなりません。

恵みにより信仰のみにより救われる、天に引き上げられる、という教えは、人を放縦へと促してしまいそうな気もします。そこで、パウロはこの恵みのゆえに「慎んでいよう」とキリストの弟子たちに勧めています。イエス・キリストの終末預言の教えの続きもまた、そこに焦点が合わせられていきます。

弟子たちへの教えは続きます。


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