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キリしよん(11) 天国を持つ人、持たない人

マタイ25:14-30

キリストの終末預言、略して「キリしよん」。譬と同じで、説明を聞かないとこれだけ見てもわからない、ですよね。

天国の譬話が続きます。「タラントのたとえ」というタイトルで有名な個所です。

前回は、思慮深いか思慮が浅いか。その違いは、「わたしはあなたがたを知らない」と言われて置いてけぼりにされるほどのものでした。でもその譬による教えの結論は、むしろ、恵みをほうふつとさせるものでした。

今度の譬は、「良い忠実な僕」「悪い怠惰な僕」の違いを教えてくれるものです。聖書の言う「良い」「悪い」、「忠実」「怠慢」とは?私も気になるところでした。よく聞く譬ですが、何だかモヤモヤした感じの取れない話です。その真意は?

ある人が自分の財産を預けて旅に出る

3人のしもべに、合わせて8タラントの財産を預けて旅に出る主人。「タラント」は一生の間に受けた収入の合計をさす単位だそうです。8タラント、つまり8人の生涯財産分を3人に与えて自分は旅に。この財産をどうこうしろ、ということは書かれていないのですが、それはしもべたちの自由に任せられていたのでしょうか。

自由に使えるものがポンと与えられたら、それをどう使うかにその人の心が現れるのだろうと思います。

誰にも邪魔をされない自由な時間が与えられたら何をするか。ユダヤ人にとっての毎週の聖日「安息日」は、もともと、そういう自由な時間だったのだろうと思います。仕事をしてはならない。女性が料理などの家事からも解放される一日でした。その時間を、神に面と向かうことに使う、というのが、神に期待されていたのか。。。。

かなりのまとまった財産を与えられた3人のしもべは、それぞれの道を行きました。最初の二人は、「すぐに行って、それで商売をし」たのです。儲けはそれぞれ5タラントと2タラント。元金も含めて手元にある財産について言っているようですから、5タラントを使って10タラント儲け、2タラント使って4タラント儲けた、のです。

主人から与えられた物を無駄にはしない、という心が見て取れます。

でも、3人目の僕は違いました。労力を使い地を掘って、そこに隠してしまいます。いったい何のための労力だったのか。

終末預言の中でこのような譬が語られて、弟子たちは、キリストがどこかに行って再び帰って来る時のことを言っているに違いない、と思いながら聞いていたでしょう。そして、自分たちは、そのしもべに相当する者だ、と。当然、すぐに商売をして儲けを出すのが私だ、と思いながら聞いていただろうことは想像に難くありません。

主人と一緒に喜ぶ

主人が預けっぱなしでもう戻らないかもしれない、などと、しもべたちは考えもしません。3人とも、主人が帰って来ることを知っていて、そして、その時が来ます。

当然のように商売をし、財産を倍にしたふたりのしもべは、主人と一緒に喜ぶことができる人たちでした。

そして、二人は能力の違いで与えられたものは違ってはいましたが、主人からかけられた言葉は全く同じでした。「良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」。

「良い」とは、神に匹敵するような良さをさす言葉だそうです。

ある青年がイエス・キリストに質問に来た時、イエスの最初の言葉は「よいかたはただひとりだけである」でした(マタイ20:17)。ひとりだけ、つまり、神のことです。

ここの譬では、しもべが、同じように「良い」者だと評価されたのでした。主人と心を一つにしていた僕は、神と心を一つにしている弟子を譬えているのでしょう。

イエス・キリストを取り巻いてこの話を聞いている弟子たちは、「それは私だ」とにやりとしたかもしれません。だれが「5」で、だれが「2」か、今はさしおいて、、、いやいや、もしかしたら私が5かも、、、と、またにやりとしたかもしれません。

キリストが再び帰って来る時、5タラントでも「わずか」といえるほどのものが次にゆだねられることになったら、すごいことになりそうだ、とまたまたにやり。

実際、天国は、ただ遊んで楽しむ場ではなく、主人から多くのものをゆだねられる所のようです。さらに自由にそれらを使える環境で、この二人なら、誰に何も言われなくても、もっともっと多くのものを得られるような使い方をするのでしょう。それこそが、主なる神と「共に喜ぶ」生き方なのです。

主人は酷な人?

さて、三番目のしもべ。預けられた1タラントの財産を地の中に隠してしまった人です。いったいなぜそんなことをしたのでしょうか。言い訳が始まります。

この者の「主人」に対するイメージは、「まかないところから刈り、散らさないところから集める酷な人」でした。これまでのこのしもべの人生においては、主人は何も与えてくれなかったし、利益を取り立てようとするばかりだった、と言っているかのようです。少しでも損失を出したらこっぴどく叱られるのだから、それだったら何もせずに元金まるまる返したほうがいい、と恐怖のゆえに金を隠していた、と告白します。

これは、神を恐れる人の姿なのでしょうか。このしもべにとって、主人を恐れることは主人の心に忠実に生きる動機にはなりませんでした。むしろ、与えられたものを全て無駄にしてしまう結果に終わるのです。

何が問題だったのでしょうか。

第三のしもべは、「金」、つまり地上で得られる実益のことしか考えていなかったように思えます。彼は、主人と心を通わせていないのです。

そもそも、主人は旅に出る前に、第三の男にも1タラントを預けています。「まかないところから刈り、散らさないところから集める」主人像は、身勝手に作り上げられたイメージでした。

同時にこのしもべの譬は、神を恐ろしい存在として勝手にイメージを作りあげた宗教家・弟子を示しているようです。神の存在や、神が「主人」という位置にあること、人間がそのしもべであることを認めていても、では、その神はどんな方なのか、について、事実にそぐわないイメージでしか見ていない人があるのです。宗教規則で縛り付け、しょっちゅう怒る神、そんな神のイメージです。

終末預言とのかかわりで言えば、人類に患難をもたらすと言われる「神」への反感を持つ人を描いているかもしれません。やはり、怒る神というイメージが優先しているケース。

もし神がそのような存在であると考えるなら、たしかに、熱意を掻き立てられて一生懸命に仕えようという気にはなれないでしょう。結果、神に対しては「怠慢」になってしまうのも当然と思えます。「悪い」と言われるしもべは、その「主人観」が悪かったのでした。

天国を持つ人、持たない人

「先の者がはあとになり、あとの者は先に」(マタイ19:30、20:16)と同じような不思議な天国の教え。「持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる」。マタイ13章、一連の天国の譬の教えの中でも、同じ言葉で教えられていたことです(マタイ13:12)。

天国に一番乗り、と思っていた人たちが、最後になってしまう。天国を持つのは私だ、と思っていたのが実は持っていなくて、本当に持っている人に明け渡すことになってしまう。

一番天国を待ち望んでいたイスラエルが後回しになり、天国を見失ってしまった歴史的事実を預言したものと言えます。キリストの再臨を待っていた2000年近い歴史の中で、イスラエル民族は奥義としての天国に入りそびれてきてしまいます。そして、そのまま「携挙」の時にも地に置かれ、大患難の時代を迎えるのだろうと考えられます。「彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」とは大患難の中にあるイスラエルを描写しているのでしょう。

イスラエルが大患難に陥る原因はただ一つ、旧約の中にあったキリスト預言を受け入れず、預言通りにやってきたキリストを拒否してしまったことでした。つまり、この譬の教えの大きな目的は、イスラエルが預言通りのキリストに立ち返るための準備をすることです。大患難の中で、イスラエルが覚醒することになると考えられるからです。

1948年イスラエル国が成立。21世紀になって、「メシアニック・ジュー」と呼ばれるユダヤ人・キリスト者が急増していること。これらは、イスラエル覚醒に向けての神の段取りかもしれません。

最後に。にやりとした弟子たちは、本当にだいじょうぶなのでしょうか。

福音書を最後まで読むと、弟子たちも、「特別な人間キリスト」という誤ったイエス理解を抱いていたことが明らかになります。復活のイエスに会って、「神の御子キリスト」を知るに至ります。それが彼らに与えられた「タラント」の中身だったのです。受け止めてそれを増やした弟子たちと、地の中に埋めて隠してしまった弟子の違いは、イエス・キリスト観の違い。

こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
マタイによる福音書5章3節

いったんイエス・キリストを虚心に見つめてみることが大切。

ちょっと、もやもやが晴れそうです。

マタイによる福音書25章14~30節

14また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。 15すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。 16五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。 17二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけた。 18しかし、一タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。 19だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。

20すると五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して言った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントをもうけました』。 21主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。 22二タラントの者も進み出て言った、『ご主人様、あなたはわたしに二タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに二タラントをもうけました』。 23主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。

24一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。 25そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。 26すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。 27それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。 28さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。 29おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。 30この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。

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