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あわれみ、って?

マタイ5:7 ~マタイが受けたあわれみ~

Levi'sと言えば、ジーンズが特に好きな人じゃなくても知っているブランド名。カタカナ名にすると「レビ」(世界人名辞典)。福音書を書いた「マタイ」は、本名はレビでした。

イスラエル民族の中で、旧約聖書の時代、「レビ」は宗教を担当する特別な部族でした。それが、この「マタイ」と呼ばれるようになった人物は、他人からはさげすまれるような職業についていて、宗教家からは社会の敵みたいに思われていた人。

でもその「レビ」がイエス・キリストの福音書を最初に書いた! としたら、みんな、そんなあり得ないと驚くでしょうか。それとも、ああそうかもね、と思うでしょうか。

そのレビが、心に刺さった言葉はたぶんこれだったんじゃないか、と想像します。「あわれみ」。

あわれみ深い人たちは、
さいわいである、彼らは
あわれみを受けるであろう。


「レビ」から「マタイ」へ

「レビ」が本名で、「マタイ」は、イエス・キリストの弟子になってからの呼び名だったようです。マタイの意味は「神の賜物」。自分自身を「神の賜物」と思えるようになったのでしょうか。

もともとの職業「取税人」。税金の徴収人ですが、何も国税局を宗教家が敵視している話ではありません。

ローマ帝国に敗北してその支配下にあったユダヤ人は、「神を知らない異邦人ローマに税金を払うなど売国奴のすることだ」と感じていたようです。そして、ローマ帝国では、他民族から税金を徴収するのにローマ人が直接担当せず、その民族の人を使って集めさせていたのです。

レビは、ローマ帝国の手先になって、ローマの税金を集めていた。宗教家を筆頭に、ユダヤ人一般は、取税人を快く思っていなかったのです。しかも、金回りは良かったので、妬みも買っていたでしょう。

それが、ある時、突然のように、やめてしまいます。

さてイエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。

マタイによる福音書9章9節

いったい、何に惹かれて、「きなさい」と言われてすぐに従って行ったのでしょう?

すぐ続きのエピソードにヒントがありそうです。

それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。 パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

マタイによる福音書9章10-13節

ユダヤ人の宗教家の一グループ、パリサイ人たちは、取税人、罪人と一緒に食事をしているイエス・キリストを非難します。ユダヤ教の教師を自認するような者が、清くないものと一緒にいるなんてけしからん!と言う感じです。

取税人と並んで「罪人」と言われている人たちは、「遊女」だったろうという説もあります。

マタイ(レビ)は、そういうグループでした。

イスラエルが独立できずいつまでも異邦人の支配下にあるのは神の怒りが解けないためで、それはイスラエルの中に清くないものがあって全体が一致できていないからだ、と考える宗教家からは、それこそ、いなくなってしまえ、死んでしまえ、と思われていた社会のつまはじきものでした。

でも、イエス・キリストは、違いました。彼らを招き、一緒に食事をしていたのです。レビは弟子として招き入れられたのです。

「あわれみ」という言葉が光っています。

レビの記事を見ると、こうした人々が「罪人」扱いされるのが正しいのか、それとも、レビのような人々を罪人扱いする社会が実は「罪人」の社会なのか、わからなくなってしまいます。

神に対する負債

マタイだけが記録している、イエス・キリストの譬話の教えがあります。ちょっと長いですが、引用してみます。

そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。

マタイによる福音書18章21-35節

弟子の筆頭ペテロが、自分に罪を繰り返し犯した兄弟を赦すことが難しいと思ってした質問だったのでしょうか。「三度」じゃなく「七度」まで赦したら十分か、と。

その答えが「タラントの譬」と呼ばれる教えでした。

一万タラントの負債がある「僕」が呼び出されます。一万回分の人生の収入をすべて返済に充てなければならないほどの借金、です。使いもしない一万の豪邸を買い集めた、というところでしょうか。王は、哀願する僕を哀れに思って、借金を帳消しにします。

ところが、自分がゆるされた直後、仲間に百日分の収入相当の借金取り立てをし、返せなかったことで「獄に入れ」てしまいます。自分が受けたあわれみの大きさに感謝の念も何もなかったことがあらわになります。そもそも、王から「あわれみを受けた」とも思わず、借金が帳消しになって儲けモン、とくらいにしか思わなかったのでしょう。王の「あわれみ」を受け止めていなかったのです。

神に対して、いったいどれほどの負債に相当する過ちを犯しているのか。それに対する神のあわれみを知る者だったら、仲間の過ちに対して、それを払いきれない仲間に対してあわれみを抱くことは、当然かもしれません。逆に、神のあわれみを受けていることを知らないままだと、仲間に対するあわれみを持ちにくいことになっている、とかも、です。

またまた逆に、目の前にいる仲間が借金を払いきれない、という現実を見て、それに対するあわれみの心が生まれるとき、自分が受けた何十万倍ものあわれみを深く知ることになる、ということかもしれません。

神のあわれみの証し~復活~

福音書の終わりに差し掛かったところで、イエス・キリストが天の父に祈る場面があります。

ペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。 そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。 そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。

マタイによる福音書26章37-39節

十字架にかからなければならない時が迫っていました。それを過ぎ去らせてください、と言う祈りです。

でも、それは聞き届けられませんでした。キリストは、十字架にかけられなければならなかったのです。多くの人に神の命を賜うためでした。

マタイの目には、キリストが自らが十字架にかけられる道を進んで選び、歩みとおした、と映っていたでしょう。

マタイにとっては、イエス・キリストがあわれみに満ちた人。だから、死からよみがえったことに、神のあわれみを深く感じただろうと思います。それによって、マタイは自分自身の人生を神から賜ったと実感していただろうと思うのです。

私の人生が「神の賜物」となったのも、キリストによるのです。ちなみに、今日が、誕生日。

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