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根本的な社会の設計思想が違う国としての、日本とフィンランド

フィンランド(の都市部)に暮らしていると、なんかぬっと違和感が立ち上がってくる瞬間がある。特に僕は日本でも地方部に暮らしてきたし、まちやコミュニティという単位でずっと仕事をしてきたから、その違和感は強烈だった。

ぐっと見えてくる違和感は、まちやコミュニティ、あるいは"そのための"活動がない、ということである(もちろん、あるはある)。例えば町内会。町民参加の運動会。こういうものはなさそう。しかしもちろん、こういうものは東京にだってないので、おかしいわけではない。なのでもう少し言うと、例えばシェアハウスとか、ない。例えばこれは推測だけど、「同じ地域出身者の集い」とか、なさそう。DIYでまちのみんなとつくった「まちにひらかれたカフェ」(これはストリートにも椅子などが進出している、みたいな意味ではなく、その場で会話が生まれて、人と人とがつながっていくような場のことだ。あるいは、ママのいるバー)みたいなの、ない。つまりこの国には、ソトコトやターンズみたいな雑誌に掲載されそうな領域が、ほとんどない!

これは別に何かが異常なわけではないのだけど、僕にとってはどうしようもなく不思議で(だって、自分が当たり前のように仕事をしてきたジャンルが、この国に、ないのだ)、一体その正体がなんなのか気になっていて、ここのところ考えていた。

最近、なんとなく分かってきたので、ちょっと書いてみたいと思う。それは結局のところ、日本にいるとよく聞く「個人主義と集団主義」っていうやつに帰着するなと感じたのだけど、でもあんまりそのざっくりした理解で分かったふりにならないほうがよさそうだなあ、という感覚でいる。日本にいると、集団主義は諸悪の根源、みたいになっているけれど、個人主義/集団主義とは一体なんなのか、個人主義の国からこぼれ落ちるものはなんなのか、みたいなことを、少し考えてみるきっかけになったらいいな〜という気がする。

*この記事、全体的に主語がかなりデカいので、あくまでフィンランド(の都市部!)で、たった半年暮らした僕の主観ベースで書かれた記事であることを十分に考慮してください。恐らくフィンランドのヘルシンキ圏以外では、また様子も全く異なっている可能性が高いです。

*ヘッダー画像は最近見つけたフィンランドのおしゃランチ/カフェスペース Ravintola Southpark .

【フィンランド】

1. 個人ベース+システムによる歪みの解決

フィンランドを端的に表現すると、「個人とシステム」の国である。私たち自身が、私たち自身の都合を優先することが、みんなの中で当たり前になっている。こうした個々の個人が優先される社会では、必ず社会的に歪みが起きる。その歪みを解決するためにはなんらかの制度/システムが必要であり、そのためにpublic/政府がある。その視点で、全体最適を担う存在として、個人から政府への信託が行われているという印象がある。

private - publicとか、国家への信託みたいな意味では、非常にわかりやすい構図になっている(もちろん、そういう構図や言葉自体が輸入されて日本に根付いてきたものなので当たり前なのだけど。逆に、その構図が私たちに内面化してゆくことの権力性に気づいたほうがいいのかもしれないなと思ったり)。

ここで興味深いのは、いわば公共的/福祉的/社会課題的なものを担う"責任"は、public/政府にある、という合意形成がなされているように感じられる点にある。個人が優先される社会では抜け落ちちゃうから、政府がちゃんと見ておくよ〜、みたいな母性的な政府というイメージではなくて、むしろ個人からの主体的・積極的な信託を感じる。日本人から見ると、フィンランド人の政府への信頼意識はものすごい。びっくりする。びっくりする。二回言いました。個とpublicの間には、信託とともに、いわばしっかりした緊張関係がある。多くの市民が、いわば信託と同時に、きちんと"見て"いる。個とpublicの間に適切な緊張関係を与えている。

そして、publicがきちんとその社会課題解決をする。個人/私たちではない。個人はデモをしたり、突き上げたりはするけれども、社会課題をボランティア精神で解決する、みたいな精神は、あまりフィンランドにいるとなさそうだなという気がする(もう少しささやかなレベルで言えば、例えば落ちてるゴミを拾ったり、大学を掃除してくれている人にありがとうと言ったり、みたいなことは、フィンランドではあんまりなさそうだな、と感じる)。

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2. システム/理性への信頼、publicの態度

さて、このpublic側で、どのような仕組みが働いているのか、みたいなことについて。このような個人-システムの社会で駆動しているのが、どうやら「理性」なのではないかと感じる(…個人主義と集団主義であれ、理性と感情みたいな話であれ、なんかよくある構図に自分自身の文章が回収されていくのは変な感じがする)。

いわばなんとなく、フィンランドは社会課題解決を個人で解決することの限界、問題、みたいなものをすごく敏感に感じ取っている、ということなのかなと思う。『「利他」とは何か』で伊藤亜紗は、日本の特別支援学校の廊下に「好かれる人になりましょう」と標語が掲げられていて、愕然とした、というエピソードを紹介している。伊藤が示唆するのは、障害を持つ人が社会から排斥されないためには、社会の中で「好かれる人」のイメージに適合しなければならないというディストピアだ。「キモくて金のないおっさん(KKO)」のような、見えない弱者問題、は日本で静かに、しかし度々話題になってきたテーマでもある。

つまり、個人に社会課題解決を委ねる社会(ここでは日本のこと)では、悩み/問題を抱える側が"救われる"には、社会的に"好かれる人"でなくてはならないのである。こうした個人の共感ベースで起こる問題や限界を乗り越えるために、フィンランドでは理性が採用されているのかなと感じる。

別の言い方をすれば、その、個人の共感を乗り越えて理性を採用する流れは、不可避だったのだろうという気もする。フィンランドはヨーロッパの中では恐らくどちらかといえばハイコンテクストな側の社会なのかなと思うけれども、それでもやっぱり外国人はむっっっちゃいることが当たり前。異文化間のコンフリクトを解消するためには、個々の共感性に頼ることができない、というところもあったのかなと思う。

さて、ここで理性と言っているのは、統計データ/数値化を優先する、ということであるけれど、それは一面的な見方に過ぎない。もちろんそれも非常に丁寧に扱うが、それと同時に政府が多様なアプローチを通じて、社会課題に柔軟に・丁寧にアクセスしようとしていることを強く感じる。

参加型デザイン Participatory Design という領域が北欧から始まっていることは周知の通りだけれども、政府でも企業でも、こういうCoDesignみたいな態度をすごく丁寧に取り入れている。例えば大学にいて「ヘルシンキ市でのサービスデザイナーとしてのインターン募集」のメールとかたくさん届くし、アプリのUX/UIのうまさは、とてもフィンランドらしい。

このようなアプリの例としてよく僕が出すのはHSL(=日本でいうJR?)のアプリで、バチバチにMaaSがキマっている。今いる場所からある場所への道程検索をかけると、バス、メトロ、トラム、自転車での時間がさっと表示され、そのまま瞬時に対応するチケットを買えるようになっている。

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こんな感じ。

こういうのは、数値データがこう言っているから!とか、なんとなくこうだと思うから!ではなく、きちんと出ていって、声を広く拾い、適切に課題を突き止め、解決していく、というプロセスの圧倒的なうまさを感じる。

3. コミュニティの不在

さて、この個人とシステムの社会から、不思議に抜け落ちていくのがこのコミュニティの概念である(もちろん、コミュニティという概念がないわけではない)。これはなんだかうまくいえない。どんな風に枠組みがあったとしても、あくまでそこにいるのは「個人」なのだなという印象を受ける。

例えば印象的だったのは、フィンランドの団体のウェブサイトでは、「個々人の電話番号やメールアドレス」が掲載されていること。僕たちが連絡をとるのは「集団」ではなく「個人」なのだ、ということを強く印象づける(なんでもそうだけど、例えばLasten Kulttuuri (フィンランドこども文化財団、的なもの?)はこんな感じ。)。この例が示すように、コミュニティとは「個人の集まり」に名前をつけたものであり、単なる枠組みに過ぎない、と感じることがよくある。

これは不思議と空間性を持っても広がっている。このことはうまく言い表すのは難しいのだけれども、フィンランドって「あの角を曲がった金木犀の香り」みたいなのってあんまりないかもね、という話になった。もちろんフィンランドでは、教会への畏敬もあるし、あとは自然への畏敬も感じるんだけど、裏路地とか金木犀みたいな感覚があまりない。これはいわば、なんとなく〈私たち〉にシェアされているものとしての「まち的なもの」へのコモンズ的感傷が日本人の中にはあって、それが喚起されているということなのかなと思う。

そして、このような個人が立つ文化のなかでは、"コミュニティのため"という感覚があまり伝わらない。当然、「会社での飲み会」の微妙な圧、みたいなものはない。なぜなら、その飲み会は会社のためにあるのではなく、私たち個人のためにあるのだから、行きたくないなら行かない、そんなことは当たり前なのだなと感じる。とにかく、あまり知らない他者と出会いにいったり、まして他者を巻き込んでともにたのしさをシェアする、みたいな文化自体があまりない

地域のための活動、みたいなものは出てこないし、どうしても「まちづくり」という言葉をうまく伝えることができない。まちづくりってものがあってね、こういう仕事をしてきたんだよ、と言うと、都市計画やUrban Designという言葉にすぐにすり替わってしまう―専門家によるシステム的課題解決、の話に。適切な語がないし、私と彼らの間に、共有している前提の文化がないのだ。(そう考えてみると、日本語でもあんまりうまく伝えることができない。僕はその意味で、一体なにをしてきたのだろう?)。

よくフィンランドにいる日本人の方と話すのは、仮にフィンランドでまちづくり的な活動をした場合、「コミュニティ指向の活動をしたとして、そこにフィンランド人が集っている姿が想像できん」という話。わかる。なんかフィンランド人の人たちのコミュニケーションってなんか不思議で、「この時間にここで集合ね」みたいな話にあまりならないというか、良くも悪くも一緒に行こうね、みたいなぺたぺた感がない。すごい乾いてる。ばらばらに来るし、気づいたらそれぞれ勝手にばらばら帰っている。まあ僕が鯖江でやってるシェアハウスも大概そうなんだけど、フィンランドでは社会的にそれが普通なのが結構おもしろい。

一方で、じゃあみんなどんな風に他者との関係をつくっているのかというと、アウトドアでの、一人遊び/家族遊びみたいなのが非常にうまい感じがする。極めて親密な、極めて小さな集団として生きている感じがする。でも、この個々での遊びのうまさみたいなのは割と見習ってもいいかもという気もする。真冬のフィンランドでは湖/海が凍るのだけれど、そうするとその上でみんな、テントを張って凧揚げをしたり、穴をあけて釣りをしたり、スキーをしていたり、犬とはしゃぎまわっていたりする。この-10℃の外で、こんなにアクティブに遊べるんだなあ、と変な驚きをもった。

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写真は先日、カフェに行ったときの写真。気温は-10℃前後だったと思う。こういう景色見ると、めちゃくちゃフィンランドだなと思う。なんか、そこまでしてお茶したいという感覚は一体なんなのだろうか???

(ところで、フィンランドでは一人暮らし率が非常に高くて、家族からすぐに独立する、という話はマジのマジで本当なのだけれども、一方で東京のような「一人での一人暮らし」をイメージしているとそれは恐らく間違いだ。フィンランドでの20-34歳のうち、3割が「同棲」している。小さな親密圏をしっかりとつくっていく人たちなのだなあ、という感じがする。)

(ちなみに、こういう話をするとじゃあフィンランド人は会議が短いんでしょうね〜という話になりやすいと思うのだけど、会議全然短くないです。なんか変に日本みたいな感じでもあり、でもそれともちょっと違っていて。バチンと「こうだよね、こうしましょう!」という人はいなくて、「こう思うんだけど、どう思います?」「うーん…」(ここから30秒沈黙)、みたいな、不思議な会議が展開される。「決め」というより、割と納得とか、会議における場の空気感で物事が進んでいく感じはなんとなくしている。でも皆言いたいことはちゃんと言う。なんだろうな。"待つ"会議だなと感じる。強めの人とかが入ってくると、会議がアワアワッてする)

4. 抜け落ちる関係性的実践

さて、このような社会で、一体何が問題になってくるか、一体何が対応しきれないのか、ということを考えてみる。

フィンランドで抜け落ちやすいのは、個々の関係性、寄り添い、感情、共感といった領域だ。フィンランドにいる日本人の方と話していてよく言葉に出てくるのが、フィンランドは「制度は作っといたから、あとは勝手に生きてよ」という社会だ、ということ。

その結果、何が問題になってくるのかということについて、学校の例をあげて考えてみる。

学校における子どもたちの孤独や悩みは、フィンランドではセラピストやソーシャルワーカーなどが在籍して対応にあたっているそうだ。子供の悩みの解決は彼らの責任である。良く言えば専門家が適切に対応する"システム"を整えている。しかし、このような人がいたとして「よし、知らない人にいじめのことを相談しにいこう」と思える子どもがどれだけいるだろうか?

その一方でフィンランドでは、中学生の半数が「教師は私たちがどう感じているか、何をしているかに興味がない」と感じていることが報告されている。( "almost one half of pupils at higher grades of comprehensive school do not feel that their teachers are interested in how they feel or how they are doing."  https://julkaisut.valtioneuvosto.fi/bitstream/handle/10024/161616/VN_2019_9_Enabling_growth_learning_and_inclusion_for_all.pdf?sequence=1&isAllowed=y )

ここにフィンランド的な課題が表出しているように思う。

私たちの個人的な悩みというものは、個人的な関係があって、はじめて(「ねえ、ちょっと聞いてほしいことがあるんだけど…」)吐露できるものがほとんどなはずだ。いくら相手がセラピストであろうが、いくら私が抱える問題が、専門家/システムにより社会問題として解決されるべきものであろうが、私たちは一人の個人と個人として、聞いてほしい人に聞いてほしいのである

しかし、これらはいわば制度化されて提供されていて、それをきちんと使いこなすのが私たちの側の"責任"である。教師は教師であり、子どもの悩みを聞くのは彼らの職務ではない。

このようなシステム解決的な態度は、子どもたちとの、良くも悪くも個人的な関係性のなかで対応するしかない悩みを取りこぼしてしまう

このような点が、学校での問題に限らないことは、少し考えてみると想像がつく。例えば孤独の問題などを考えてみると、システム的に課題解決として提供されるコミュニティは、いわば私たち自身できちんと取りに行くこと、活用することが前提になってしまう。本来は、このような問題は、〈私たち〉レベルのコミュニティとしてじんわりと和らげられていくしかない部分もかなり多いはずで、このような、個人と個人との関係性、他者への共感、寄り添い、みたいなものが必要な施策は、フィンランドはかなり苦手だと言っていいのではないか。

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【日本】

1. "集団"がベースの社会

さて、今度は日本に目を向けてみる。

日本が集団主義、という話はまあたくさんあって、会議が長いだの、残業がどうだの、イエがムラがどうだの、という話は飽きるほど読んだり聞いたりしてきた。そして、僕は2015年からフリーランスとして仕事をしていて、そういうたぐいのものとは無縁になったし、僕は割と個人主義的な人間なのかな、と思っていた。でも、フィンランドに来て、驚くほど、ああ、僕は集団ベースの人間なんだな、という思いを改めて強くした。

集団がベースで社会が成り立っているとは、どういうことだろう?

それは、いわゆる会議がどうとか、同調圧力がどうとか、そういうものよりもずっと身近なところに根っこがある、と感じる。簡単にイメージできそうなのは、一体誰と遊ぶか、というところ。ここにたぶん、日本とフィンランドでは大きな違いがある。

少しイメージしてほしいのだけど、例えばこれまで、部活で遊びに行くとか。会社の同僚たちと飲みに行くとか。クラスの友達とカフェ行くとか。そういう風に日々を暮らす人は多いと思う。そして、そういう遊び相手の「集団による区分」があるなら、それ自体がたぶん、とっても「集団」ベースだ、ということなのだと思う。つまり僕たちは、遊び相手を、自分の所属する「集団」に依存しているのだ。何人かの友達グループでLINEグループができて、遊びに行くときはその友達たちに声をかけて、何人かで遊びにいく。そういう世界観。グループのなかで「今度海行かない?」「めっちゃいいね!!」みたいな会話が起きてその企画が立ち上がってみんなで海行く、みたいな世界観。こういうの自体が、とっても集団ベース的なことなんだろうな〜、なんて思ったりした。

フィンランドの人たちは、あんまりそういう依存をしないように見える(いまフィンランドの友人に、どう思うか聞いてみているところ→2/13 下記に追記しました)。もっと個人と個人、というか…。あんまりうまくは言えない。もちろん、何かコミュニティみたいなもの=同じ枠のなかにいる、という感覚はあると思うのだけれど、そこに所属している、ということは行動の指針にあまりならない。僕たちも、LINEグループはできていつつも、その中で個人にメッセージして1:1で遊びにいく、みたいなことってあると思うけれど、なんか、基本的にフィンランドではそっち側、つまり1:1のコミュニケーションによって社会が成立している気がする。

そんな風にして、私たちはやっぱり、思ったよりずっと、集団ベースな社会に暮らしているんだろな、と思う。

*2/13 追記: アアルトの同級生内で、めちゃくちゃ活発な「友人グループ」のグループチャットがある。「アイススケート行こうぜ」とか「今日パーティしない?」みたいな(日本人の友達グループのような)会話が飛び交う。恐らくこのチャットの感じって、とってもとってもとっても日本的なのではないかしら?と思って、一緒に入っているフィンランド人の友人に、このグループチャットをどう思うか聞いてみた結果がこちら。

"For me XXX group is quite special. First of all I don’t have any other chat group with so many people and I believe that to be quite common among Finns. I think we have smaller but very tight social circles. And like you said I also feel that we tend to communicate more individually."
私にとって、XXXグループはかなり特別。まずそもそも、こんなに多くの人が入ってるグループは他にないし、フィンランド人の間ではそれが当たり前だと思う。私たちは、小さいけどとても緊密な関係をつくる。あなたが言うように、私たちはより個人的にコミュニケーションをとりがちだと感じる。

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2. 分厚い〈私たち〉層

そういう社会では、当然その中に、個人とパブリックというレイヤーとはまた異なる、〈私たち〉という分厚いレイヤーがあることに気づく。(というか〈私たち〉がpublic的な役割を果たしていて、publicみたいなものの役割が小さい、のかもしれない)/(〈私たち〉というのは、個とpubicの間にあるいわゆる個-共-公 / private-commons-public、のようなもの?)。

これの〈私たち〉ちょっと別の言い方をすると、他者的である、という言い方もできるのかもしれない。自分が駆動の最優先ということでもなくて、自分と、自分が想像する他者の意志とのすり合わせによって社会が駆動していく(これをあまり安易に共感だとか思いやりみたいな言葉にしないほうがいいかもしれない)。

そこでは集団的な論理が作動する。「みんなで行ったら喜びも分け合える」的な。「One for all, all for one」的な。良いところも。悪いところも。

このような〈私たち〉層は、もっと無意識のレベルで、いろんなレイヤーで作動しているような気がする。空間的に、おんなじ地区に住んでいる、とか。あるいは時間的にも、ご先祖、とか。そういう〈私たち〉的なもののなかで、私たちは無意識に一定の共通感覚、感覚としてのコモンズをシェアしている。

そうした集団性が前提されているからこそ、私たちは集団に入ることを無意識に選択するし、また社会的にもそれが無意識に目指されているように思う。

中高で部活加入が必須だったところは多いと思う。必須であることが良いか悪いかは別として、このような「集団に入る」ことを当たり前にする文化は、結構おもしろいなと思う。個人の生活が集団に根ざし、そこで友達を作ったり、悩みを相談できたりできるからこそ、日本の社会は集団にはいることを自然に保障しようとする。中高の部活。大学のサークル新歓活動。就活…。

さて、ここではどんな風に社会課題が解決されているかということを考えてみる。すると、フィンランドで公共が担っている、"個人の行動の結果として生まれる歪みの解消"は、日本では集団によって解決されてきたし、それをベースに社会が成り立ってきたと言えるのではないか。

例えば小学生の防犯は地域の親たちが。まちの花壇は、地域の町内会が。あるいはそういう事例を引くまでもなく、みんなで遊びにいくことが、孤独の問題を未然に防いでいるだろう。あるいは合コンだって、出会いの不足を解消するための、まさに〈私たち〉レベルでの解決策なのだ

思い出すのは、日本最初期の町並み保存事例として有名な、長野県の妻籠宿のことだ。

妻籠宿では住民全員が設立した「妻籠を愛する会」によって(これもすごい話だ)、1971年に「売らない、貸さない、壊さない」などを定めた「妻籠宿を守る住民憲章」が発効された。これには強制力も罰則もなかった。しかし、「なにもかも書くのはやめろとした。あとは、不文律」だからこそ、極めてハイコンテクストな共通倫理のなかで、「住民自らが決めた掟こそ犯すことができない」(p.334)ものになっている

なぜかといえば、ここでの違反とは、即座に集団に対する離反を意味するからだ。怖いな、と思った。そして同時に、だからこそ極めて適切に、集団的に社会課題が解決される。ルール=統治が機能する。それによって守ることができるものもある(石川、窪田、西村 2016)。

3. 〈私たち〉を後押しするものとしてのpublic

このような社会で、publicとは一体どのような位置づけにあるのだろうか?おそらくそれは、Public/政府が主体となって社会の課題を解決していくというよりも、〈私たち〉によって成る社会をスムーズにまわしていくこと、および社会の中で自発的に起こる実践を後押ししていくことにあるのではないか。つまりここでは、フィンランドのような"異なる役割を担う存在"というよりも、もっともっとpublicは〈私たち〉の延長線上にあるような気がする。

この日本の構造の悪い点は、フィンランドの箇所で述べたこととちょうど真逆で、共感に依存してしまうことだ。例えば、最近、日本でも参加型の政策策定ワークショップは流行しているけれども、なかなか市民参加は、適切に全体に伸びていかない。

良くも悪くも(基本的には悪い意味で)、声が大きい人の声が通ってしまう。一方でその分、日本はフィンランドよりも、構造的に〈私たち〉的な活動が表出しやすいのはおもしろい。

フィンランドでは、いわば政府が課題解決に対して非常に熱心であるからこそ、市民はもちろん政治やジェンダー、環境問題に高い関心を持っているけれども、行動の面で無意識に政府の側に、実践を委ねてしまうところがある。…いつでも私たちではなく、「政府」が課題解決の主体になってしまうのだ。フィンランドの人類学者でアクティビストでもあるEeva Berglund(2017)は、フィンランドではまた、本来対立するはずの「アクティビズム」と「政府」が親和的すぎて、ガンガン社会活動にお金がつくから、アクティビズムが抵抗 resitance にならないのだ、ということを報告している。

"the city administration wants to harness the know-how of local residents to help solve shared socio-environmental problems. To think of the phenomenon of grassroots activism primarily in terms of resistance then would be misleading"(p.568)
「市の行政は、地域住民のノウハウをうまくコントロールして、共通の社会環境問題の解決に役立てたいと考えている。草の根の活動という現象を、主に抵抗という観点から考えるのは誤解を招くだろう。」

その点日本では、「私たちの実践」が先にくる。政府/publicは、それを政府がやるとうまくいかないのだ、ということを前提に、その活動を後方から支援したりする(このあたりの補助金による活動のうまくいかなさは、木下斉さんの指摘を引くまでもない)。

冒頭で述べたように、ソトコトやターンズ的な活動はその意味で―私たちベースの国家に住む僕たちにとって―、とっても日本的なものなのだと思う。

4. 集団からこぼれおちるときに

日本の構造の問題は皆さんよくご存知のとおりだと思うけれども、フィンランドとの比較で言えば、つまり集団にコミットしない/できない/受け入れられない人々が、日本ではやや苦しくなってくる

現実問題として、日本の多様化は急速に進んでいるし、会社の飲み会なんて行かなくたって当たり前、という風潮は、それが良い悪いではなく、少なくとも事実として進行している。その意味で、上記の"やや苦しくなってくる"人々は当然、増え続けているはず。

フィンランドでは孤独の問題がクローズアップされている、ということは上述したとおりだが、日本も大概同じようなものだ。

高齢者であれ、若者であれ、日本ではおよそ1/5が、頼れる相手がいない、相談相手がいない、と回答している。この値はコロナ前のフィンランドと同じである(コロナ禍のフィンランドはおよそ1/3が孤独を感じている)。

言うまでもなく、この日本のパートで述べてきた「集団」性は、日本でどんどん消滅していっているといっていい。おそらく、東京で生まれ育った人たちが読めば、本記事には今更なに言ってんの、みたいな記述も多かったに違いないと思う(町内会、とか)。輪をかけるように、コロナ禍は集団性を大きく引き裂いたと言っていい―"大学のお祭りのようなサークル新歓活動"とか。

こうした社会の変化のなかで当然必要なのは、集団に頼らない、政府によるシステム的なアプローチだ。つまり事実として、日本はフィンランド的アプローチを取っていかざるを得ない状況にある。しかし、public側が適切にその方向へとトランジションできていないことが、日本の構造における大きな問題だと思う。未だに日本のpublicは、良くも悪くも「あんたらが主体でしょ」と言い続けていて、その姿勢を崩していないのだ。

このあたりは、ずっと難しい。僕がデザイン態度として指向するのはDesign by ourselvesの涵養にある。それはまさに、「僕たちが主体」を目指す態度だ。その意味で、日本の態度は―"自助"しろと突っぱねる態度は―正しいようにも思える。しかし、それは理想的には、publicとの適切な緊張関係の中で作動すべきものだ。イタリアの友人は「政府が頼りにならないから私たちでやるしかないんだよ」と言っていた。それが良いかどうかと問われれば、良くないに決まってる。でもフィンランドは一方で、僕から見ても「あんたらが主体でしょ」って、言いたくなりそうなこともあったりするのだ。その微妙なバランスは、たぶんいつまでたっても難しい。

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【まとめ】

こんな感じ?

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本当にざっくりまとめてしまえば、ここまで1万字もかけて、フィンランドは個人主義で、日本は集団主義だよ、という話をしてきたにすぎない。誰もがいろんな書籍で、たくさんしゃべってきたようなことを再生産しただけと言われれれば、そんなようにも思える。

けれどもざっと、日本とフィンランドは、そもそも依って立つ前提が全然違うんだということ。個人主義は全体最適を担うシステムと常に依存関係にあって、またそれは逆説的に〈私たち〉的なアクションを生み出しにくいということ。集団主義は意外と若い人たちの間にもあるような気がしていて、また集団性が薄まっていくなかで、フィンランド的な全体最適的なシステムアプローチと、それを担えるための理性的なpublicがどうしても必要だと思うこと。といったような話をしてきた。

僕の中にはたった6ヶ月のフィンランド(の都市部!)と、日本のイメージしかないのだけれども、たぶんアメリカやイタリアのことをよく知る人は、またたぶん全然違う仕組みを目にしているんだと思う(なんとなくここまでのところ、イタリアと日本はたぶん、かなり似ているんじゃないかと推測している)。

ただ、こうしてまとめてしまっても、やっぱりじわじわと実感を伴って湧き上がってくる感覚を全て言葉にできているとは思わない。昨日、「あれ、これって結局、いわゆる個人主義と集団主義なのでは?」って思い至るまでは、しばらくその2つの言葉を忘れていたくらいなのだ。これは不思議な実感だ。私たちの依って立つ前提となる設計思想が、完全に違っているんだという感覚。当たり前というものがこうも違うのか、という素朴な感覚がある(日本の中でさえ、都市と地方とでは、違いはとってもとっても大きいけれども)。

ざっくり言ってしまえば、たぶん今のところ、フィンランドのほうが日本よりはそれなりに機能していると思う。日本もコロナでまた社会構造の変化が一気に進展しているはずだし、うまくトランジションできなければ、もっと状況は悪くなっていく一方だと思う。しかし、孤独や鬱の例を見ても分かる通り、フィンランド人が世界で一番幸せかどうかは微妙なところだ。完璧なシステムなんてない。もちろん、完璧な国や主義もない。それに向いている人と、向いていない人がいるだけだ。

その意味では、日本が苦痛な人にはフィンランドが、フィンランドが苦手な人には日本が合いそう。そんな気もする。しかしながら、たぶんそれぞれの国に生きるのに必要な素質みたいなものをそれぞれひとつだけ挙げることができそうな気がする。もしフィンランドに行くなら、最終的に(例えば、大事な友人やパートナーが高齢になって亡くなってしまったときに)孤独にならない程度の社交力、つまり新しい集団に所属するための勇気が絶対に必要だ。そしてもし日本にいるなら、集団の圧力をうまくいなすための自我の強さ、自分を優先する能力が絶対に必要だ、と思う。

これはとっても不思議なような、とっても当たり前のような結論だ。フィンランドでは、「コミュニティに入る」ための保障は日本のように提供されないから、自分自身でその能力を持っている必要がある。日本ではその逆で、フィンランドの社会で常識になっている「個人の優先」を、自分自身で信じて担保することが必要なのだ。

さて、今後の問題は、このあたりをどうつないでゆけるか、ということ。お互いに互いの良いところを社会に組み入れていくするには一朝一夕ではいかなさそうだけれども、全く異なる社会前提を、お互いが可能性としてはらんでいることは、とても豊かなことだと思う。みなさんの意見、みなさんのストーリーも、また聞かせてください。

あ、あとこないだ見えたオーロラあげておきますね。

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以下宣伝。

大学院留学に関連して、マガジンにて記事をいくつか書いています。

イギリス・RCAのサービスデザイン、およびデンマーク・オーフス大学のVisual Anthropologyに在籍している友人と、マガジン「欧州往復書簡」を執筆しています。

デザイン関連の記事などもいくつか。

以下、自己紹介です。

「社会に自由と寛容をつくる」をビジョンに掲げ、プロジェクトマネージャー・サービスデザイナーとして、まちに変容を埋め込むデザインを探究しています。キーワードは変容、自然さ、寛容。

福井県鯖江市のシェアハウスを運営。半年間家賃無料で住める「ゆるい移住全国版」コーディネーター。福井の工芸の祭典「RENEW」元事務局長など。

詳細は以下より。





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