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アスタラビスタ 4話 part5

 誰も動こうとはしなかった。まるで時間が止まったかのように、道場の隅で審判をしていた清水も、その様子を見ていた圭も、目を見開いたまま動かなかった。雅臣は面の中から私をじっと見つめていた。彼の瞳に、もう攻撃の意思はなかった。ただ、何が起きたのか、頭の中で今までの試合の流れを反復しているようだった。

 止めていた呼吸を、私は再開する。粗い息遣いが道場の中に響き渡った。もう、決着はついた。審判である清水に言われなくとも、私たち二人の間での勝負はついていた。

「す、すげぇ……」

 あのうるさい圭が、一言しか発しなかった。清水も目を見張っているようで、何も答えない。

 あまりの息苦しさと全身の筋肉の痛みに、私は思わずコートの中で無様に膝を着いた。板張りの床に手を着き、四つん這いになる。俯いた面から、汗がぽたぽたと落ちた。心臓は激しく暴れている。だが動悸ではない。それは明確な意志を持って目的を達成した、充実感に溢れた鼓動だった。私は久しく、この感覚を忘れていた。

 もう、身体が言うことをきかなかったあの時とは違う。自分の身体を、私は自分の意志で支配した。

「くっそ!」

 コートの中で立ち尽くしたまま、雅臣は面の紐を解き、素顔を露わにした。私は彼の言葉に驚き、身を縮めたが、彼の顔は笑顔で満ち溢れていた。

「くそ! 完全に騙された!」

 彼に対して堅物という印象を持っていた私は、汗を拭いながら満面の笑みを浮かべる彼に驚いた。彼の姿は爽やかで若々しく、それまで私が持っていた「大人びた青年」という冷たい印象は消え去った。彼は年相応の、子供らしさを残した青年だった。

 対して、私は鉛のように重たくなった腕をのそのそと動かし、自分の面の紐を解いた。

「紅羽! すげぇよ! 俺、びっくりしちゃった! ビュンってすげぇ風斬る音がした!」

 私へと走り寄って来た圭は、面を外している私の背中を叩いた。

「翻弄されてたね、雅臣」

 圭に少し遅れてコートの中に入って来た清水は、雅臣に微笑みながら言った。審判としてコート外から勝負を見ていた清水は、あえて私たちに決着を言い渡すことはしなかった。

「お前も紅羽の動きに驚いただろう? 対峙すると目で追うので精一杯になる」

 興奮気味に話す雅臣に、清水は「羨ましいなぁ。俺もやりたかったなぁ」と眉を下げた。

「なんだよ! あんな動きできるのに、お前はどうしてあんなになっちゃってたんだよ!」

 圭の問いかけに、私の荒い呼吸が一瞬止まった。

「本当にそうだよ。紅羽ちゃん、こんなに動けるのに、どうして俺たちのところに来た時、あんなに体調悪かったの?」

 圭に続いて清水も尋ねてきた。私は何と答えたらいいか分からず、雅臣へと助けを求めて視線を向けた。だが彼も、私の体調と動きの違いに疑問を抱いていたのか、ただじっと私の言葉を待っていた。

 私は荒い呼吸を整え、彼らの視線を避けるように顔を伏せ、小さな声で呟いた。

「……フラれたんです。一年以上付き合っていた彼に。それから、身体が言うことを効かなくなって。どうやっても治らなかったんです。気が付いた時には日常生活も送れなくなっていて。カウンセリングを受けたり、薬を飲んだりしても良くならなくて。こんなことで心も身体も壊すなんて、本当に恥ずかしくて」

 そうだ。失恋なんて、誰もが経験することだ。なのに、私は誰もが経験することでつまずき、心も身体も壊した。それは私が弱いから。私がおかしいから。私が間違っているからなのだ。

「別に恥じることじゃないだろ」

 意外にも軽く返事をしたのは、雅臣だった。私はその言葉に、伏せていた顔を上げた。

「お前は心や身体が壊れるくらい、そいつのことを愛せていたんだよ。立派じゃねぇか。もっと自分に自信を持てよ」

 雅臣は「そうだよな?」と圭や清水に同意を求めた。彼らは笑顔で大きく頷いた。

「それにお前は今、変わっただろ? お前はもう、ただ悲しみに暮れる人間じゃない。自分の意志で自分をコントロールできる人間だ。今までのお前とは圧倒的に違う」

 彼の言葉を聞いて、視界がぼやけた。何も見えない。涙がボロボロと零れていく。人前でこんなに涙を流すのは、何年ぶりくらいだろう。もう二十歳を迎え、大人であるはずなのに、情けないと思った。けれど、今流れている涙は心を洗い、新しい私へと生まれ変わる涙のような気がした。

 雅臣は一息ついて、優しく言った。

「なんだよお前。自分が壊れるくらい相手を好きになれて、薙刀もあんなに強くて、格好良すぎだろ」

 今まで、私は自分が恥ずかしいと思っていた。自分が間違ったことをしてしまったとばかり思っていたのだ。だからいつまでも悔いて、過去にすることができなかった。

 涙を道着で拭う。動悸はもうしない。吐き気も、眩暈もしない。

 しっかりと両足で床をつかんで立ち上がる。そして外した面を抱えて大きく深呼吸し、雅臣に向き合った。

「またやろう。俺もすごく楽しかった。いつでも相手してやる。お前はすごく強いよ」



 雅臣は笑みを浮かべて、私へと骨ばった拳を差し出した。その意味をすぐに理解した私は、自分の頼りない白い拳を、彼の拳に軽く当てた。


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