ガロに人生を捧げた男

劇画狼さんが手掛けた本「ガロに人生を捧げた男 全身編集者の告白」
名古屋の特殊書店ビブリオマニアさんで見つけてパッと買ったままだったのを、漸く読み終わりましたのでご紹介します。

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コレはちょっと変わっていて、以前は劇画狼さん自らが出版し
全身編集者
というタイトルで世に出ておりました。それも私は買って読んで、とてもとても素晴らしい本で。アルファポリスに感想も書いていました。
そして今回、いよいよ商業出版という形で再デビューが決まった際に改題されたというわけです。

函館で生まれ育った白取千夏男さんという人が出会ったガロという漫画雑誌と、その編集長の長井さん。長井さんから学んだという編集者としての矜持や、漫画雑誌の編集という職業への想いと理念。そして仲間や作家さん、のちに奥様になるやまだ紫さんのことを、時に面白おかしく、時に熱のこもった言葉で書き綴った本です。それは今回も変わっていませんし、相変わらず面白い本です。
社会が今より豊かで、幅があって、その中で貧乏しつつも尖って、時代の先端を切り拓くガロ。
経営者が変わって資本が入り、再生の三本柱を持ってガロは見事に立ち直る。
そして今度はデジタルの時代が来る。
そこでデジタルガロというものを始めるけど……と、月間漫画ガロの歩みを白取さんの目線から辿ってゆく。デジタル黎明期とも言える時期の話は今もってチンプンカンプンなんだけど、白取さんが当時未知なる技術と世界だったネットというものに対しても並々ならぬ意気込みを持っていて、それをガロやひいては表現者たちみんなのためのフィールドにしようとしていたのは伝わる。ただ、混迷を迎えた時期のから遂に休刊となるまでの話は、折角復活して明るい話題が出た後だけに寂しくてつらい。

私は正直、そこまでガロに明るくは無くて。でも自分の好きな人や知ってる人、好きな人がかかわってる人、そういうところで必ず出てくる地層のような言葉が
ガロ
だった。
知る人ぞ知る雑誌で、クラスでもあんまり明るくないタイプの人間が読む。そんなイメージ。

そして2005年の夏。白取さんは、病の宣告を受ける。
紆余曲折の末、生きようと強く決めた白取さんの闘病が始まる。
2008年の白取さんの日記には、病を得て学んだことは多い、とある。これはパーキンソン病を患ったマイケル・J・フォックスの自伝にも書いてあった言葉と似ている。彼は自らの病を打ち明け、これまでの半生を振り返り、最後に
自分は幸運な男(ラッキーマン)だと思う
と結び、それを自伝のタイトルにもしている。
白取さんの平和な日々、生きていることを嚙みしめるような静かな日々が続く。ただし全身を病が蝕んでいて、臓器が腫れたり小指に麻痺が出たりしている。

そして病は、白取さんから最愛の奥様も奪ってゆく。
あっという間のことで、読んでるうちでさえついていけないぐらい、呆気なかった。
私のおばあちゃんが脳の病気で倒れた時と、物凄くよく似ていた。ろれつが回らず、のたうち回って、嘔吐して呻いて……。

そこから長いようで短い日々が過ぎ、遂に白取さんは独りになる。

12章の扉には、猫ちゃんを抱いたご夫婦の絵が載っている。これは全身編集者の時にも掲載されて、とても評判の良かったイラストだ。
そしてこの章には、漫画家・やまだ紫の作品を世に残すため、夫である以前に編集者・白取千夏男として立ち上がるところに並行して、懺悔にも似た愛や情に訴えるフレーズが続く。耳の痛い話だけれど、後悔してからでは遅い。なんべんも後悔しているけれど。

そして問題の(?)13章。白取さんがフト目にしたブログの主が、今この本が手元にある、その事実を作った張本人、劇画狼さんだった。
ここで突然、本当にヒョッコリと登場する筋肉質でむちむちの劇画狼さんが、白取さんの余生を変えてしまった。いや、最後の最後まで編集者として全うさせた、白取さんの編集者魂をよみがえらせたと言うべきかもしれない。
本を出したい──
全くの未経験、畑違いもいいところからのスタートの劇画狼さんが可愛く小首を傾げるたびに、白取さんは手取り足取り導いていった。まるでカンフー映画の師匠と弟子だ。

そして白取さんと劇画狼さんのタッグは、シャカシャカぴえろに捕まったまま、イイ本を作り上げる。
お二人がその後も作り上げた本の中には、私が劇画狼さんを知り、中川ホメオパシーのお二人を知るきっかけにもなった
もっと!抱かれたい道場
もあった。この本があったから、私は劇画狼さんを通して色んな作品や作家さんに出会えたし、モモモグラで展示された星野藍さんの写真集を知ることも出来た。
そう考えると私にとって漸く、この出来事が他人事ではなくなったのが、この時だった。

最終章を書いているのは、他ならぬ劇画狼さんだ。
白取さんのその後が簡潔に述べられたあと、話は、この本の「キャンペーン開始前の打ち合わせ」に遡る。片っぽネタなどを挟みつつも、ヒリつく死線で淡々と進む引継ぎ。
その時がやって来たことも、あっさり書かれているように見えた。あらゆる言葉で飾ったりがなったり、そんなことをする必要が無いのだろう。
白取さんの生き方、編集者としてガロと如何に向き合ってきたか。そして優れた作品が沢山あるので、それに触れて欲しい。とのこと……。

最後の最後に、もう一人の現場を知る方からの返答が掲載されている。
遠い、時代も街も違う世界の片隅で起きていた出来事の答え合わせを済ませるために。


この本の伝えたいことや残したかったもの、さらには書かれていることも、きっとぜんぜん変わってない。読み比べたいけど、前の本は友達に差し上げてしまったので(彼女ならきっと楽しんで、味わってくれると思ったので)私の手元にはこれ一冊だ。
前の本から今回までに変わっていたのは読み手の私で、あの頃は後半のやまださんや白取さんご自身の病との戦いや情愛に目が行って、編集や創作に関する言葉は抜けてしまっていた。
マンガにしろ小説にしろ詩にしろ映画でもダンスでも歌でも楽器でも、
表現をする以上貴賤はなく、手段が違うだけ。
そしてそれは日々の積み重なりがスパークして生まれるもので、衝動を受け止める土台を日ごろから作り上げておく必要がある。でも、作ろうと思って作れるものではないことを、この本の序盤で白取さん自らが明かしている。あれだけ漫画家になるために積み上げたものが、諦めに変わる瞬間があるなんて。
これだけやったら出来るだろう、大丈夫だろう、という根拠のない目安にすがった夢ほど脆く軽いものはない。それは私も、とりあえず渡ってしまったメキシコの寮の4階の、二段ベッドの上で嫌というほど噛みしめた。

編集者として、作者と作品に一番近い場所から見つめ続けて来た眼差しは作品にも、編集者としての自分にも厳しいもので。
感性でしか考えられない、感性という便利な言葉のおかげで何か考えていることに出来ている私には、とても恐ろしい人にも思えた。
夢、挫折、転機、青春、結婚、闘病、そして後継者の育成
凄い人が居たんだ。そしてその教えを受けた人の本や文章を、私は読んでいたんだな。

この本が出来上がって、自分が手に取るまでのDistributionとEmotionの両方を、喜怒哀楽豊かな描写で抱きしめたい。そんな素晴らしい本です。あの時、買ってよかった。
遅ればせながら劇画狼さん、白取さん、お疲れ様でした。有難う御座いました。

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