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電子黒板にみる教育観 〜研究授業を見学して考えたこと

現在、私は地域の小学校、中学校からなる「学校運営協議会」いわゆる「コミュニティ・スクール」の委員をしています。その関係で、ちょくちょく学校を訪れる機会があるのですが、今回は、小学校で行われた研究発表会に参加して気がついたことを書いてみたいと思います。


研究テーマの概要

今回の研究テーマは、「予測困難な時代を生き抜く力を身に付けた児童の育成」というものでした。教育のプロである先生方が一つのテーマを探求していくプロセスは、さすがだなあと思うことばかりで、多くの学びがありました。

研究は、課題の設定から始まります。これまでの校内研究から、当該校の児童には「学んだ内容や学び方(考え方)を生かす」という点に課題があることがわかったそうです。「予測困難な時代を生き抜く力」を育成するためには、能動的に学び続ける態度が必要です。

そこで、以下のような仮説を立てます。

教師が「見方・考え方を働かせて思考する授業」をすれば、児童も「見方・考え方を働かせながら、知識・技能を相互に関連付けて、より深く思考する」ようになるのではないか。そうすることによって、「深い学び」を実現し、予測困難な時代を生き抜く逞しさを身に付けられるのではないか。

抽象的ですが、教科横断の目標を設定するためには、抽象度を上げる必要があるのだと理解しました。研究会での話を聞きながら、「見方」とは、一つの物事を多角的に捉えること。「考え方」とは、結論を出すまでの考え方のプロセスだと私は捉えました。そして、知識や技能を相互に関連づけるために、仮説に基づいた検証を、教科横断的にすべての教科で行ったそうです。

いわば、「思考のOS」をアップデートするような作業です。

PBL(Project-Based Learning)のような授業では、派手なプレゼンなどが行われます。成果物があると、結果がわかりやすく伝わるので「やった感」を醸し出すことができます。しかし、今回の研究のように、「思考のOS」をアップデートするような作業は、静かで、しかも外からはなかなか見えにくいものです。このような静かな研究に学校をあげて取り組むというのは、やはり公教育でないとできないのではないかと思いました。

公開授業の見学

今回の研究発表会では、上記の研究テーマに基づいて重ねてきた授業実践の一部を見せていただくことができました。1年生から6年生まで、教科も単元も様々でしたが、それぞれ、どのような「見方・考え方」に基づいて授業が行われたのかが明示されていました。

時間的に全ての授業を見ることはできず、断片的な見学になってしまったのですが、それでも随所に「思考のOS」の片鱗を見ることができました。

2年生の授業

2年生の「生活科」では、「成長」をテーマに、1年間で自分自身にどんな成長があったのか、なぜ成長できたのかを考える授業を行っていました。小学校2年生にとって、かなり難しいテーマではないかと思ったのですが、どの子どもも「〜ができるようになった」と自身の成長を言葉にしていました。さらに、それぞれの成長を本人だけではなくクラスメートにもあげてもらっていました。自分では口にしにくいようなことも、クラスメートから次々に指摘されます。

先生は、「どうしてできるようになったのかな?」と問いかけます。クラスメートから「毎日練習していた」という指摘があると、それに応じて、本人も「そういえば…」と話し始めるのです。なかなかシビれる展開です。

お互いを観察し、肯定的に指摘しあえる関係性は、この授業だけではなく、普段からの積み重ねがあるのだろうなあと想像しました。また、お互いのいいところをしっかり言語化して、伝え合うということも一朝一夕にできるものではありません。自分自身を多角的に捉えるという「見方」が養われているのだと感じました。

6年生の授業

6年生は、学級活動でした。ここではアンケート結果やインタビューをもとに、「学びを自分の未来につなげる」というテーマで話し合いが行われていました。もうすぐ中学校に進学する6年生ならでは授業です。

私は途中から断片的にしか見ることができませんでしたが、非常に静かな授業でした。板書された「ウェビングマップ」から、これまでの思考のプロセスを確認することができました。そして、グループで話し合いをしながら、自分の考えを静かに言葉にしていきます。先生もそれらの言葉をしっかり拾っていきます。静かだけれども、そこに深い思考の時間が流れていることが感じ取れました。

2年生も、6年生も、同じ自分自身の「成長」「将来」について考える授業でしたが、学年が変わるとここまで思考が深まるのかと、子どもたちの成長ぶりに驚かされます。

地方は、少子化が進み、学校の廃統合が進んでいます。これはこれで、問題視されていますが、一方で、1クラス10人前後という非常に恵まれた環境で教育が受けられるという利点もあるのだと再認識しました。1クラス30人もいたら、きっと一人一人の子どもの声を拾うのは難しいでしょうし、静かに思考する時間を取る機会も限られるのではないかと思います。

電子黒板に対する違和感

このような授業を見学して、今回いちばん違和感を感じたのは「電子黒板」の存在です。以前の教室には、大型モニターが設置され、iPadなどのモバイル機器を接続して使用していました。今回は、電子黒板が全教室に設置されていました。大型モニターとの大きな違いは、直接、モニターに書き込めるところでしょうか。

「電子黒板」👇(メーカーまで確認しませんでしたが、こんな感じのものです)

まだ、導入されたばかりだそうで、使いこなしているという感じではありませんでしたが、冷静に考えてみると、そもそも電子黒板を必要とする授業があったのかなとも思いました。1クラス10人前後で、もともとクラス人数が少ないですし、グループ活動では、全員が同じ方向を向いて授業をしているわけでもありません。授業によっては、教室内だけでなく教室の外までを活動範囲としている授業もありました。たまたま研究授業ということで、このような形態の授業が多かったのかもしれませんが、子どもたちが一斉に前を向いて座り、先生の話を聞くという授業自体が少なくなっているのではないかと思います。

「黒板」は、全員が同じ方向を向き、全員が同じ板書を見て理解をすることを前提として作られています。教室の前に固定された黒板に板書をするのはだいたい教師で、生徒が板書をする機会があったとしても、わざわざ自分の席を離れて黒板のところまで移動する必要があります。

導入された電子黒板は、ディスプレイの下に可動式のスタンドがついていました。教室の中をゴロゴロと移動させることはできますが、電源コードが必要なので、可動範囲は、電源コードが伸びる範囲に限られます。子どもたちが動き回ることを想定すると、教室の真ん中に電源コードがはっている状態は、あまり好ましくありません。そう考えると、一定の場所に固定する使い方にならざるを得ないのではないかと思います。

今回の研究授業では、板書の仕方も工夫され、思考のプロセスが可視化できるようになっていました。途中から授業に入っても、今までどのようなプロセスで授業が展開されたのか、板書を見るとよくわかるものが多かったです。自分たちの思考のプロセスを一旦立ち止まって振り返る場所として、黒板というのは、とても意味があるように思いました。このような使い方をするなら、電子黒板のように簡単に消したり、画面を変えたりできない方がいいかもしれません。

子どもたちは、一人一台iPadを持っていますから、自分の考えや思考のプロセスを、パッと映し出してクラスメートと共有するという使い方は、電子黒板ならではの使い方だと思います。10人くらいだったら、全員のモニターを映しても、全員分が無理なく俯瞰できます。わざわざ前に移動しなくても、自分の席から書き込むこともできそうです。ただ、これらは、電子黒板じゃないとできないかというと、そうでもありません。自分の手元のタブレットでも十分にできるのではないかと思います。

このように実際の授業を見ながら、「電子黒板」って、なんのためにあるのかなあと考えました。黒板が電子化されると、なんかすごいことが起こりそうな気がしますが、子どもたちの学びのための革新的な教具にはなり得ないと思いました。子どもの学びを変えるのは、やっぱり、今回のような先生方の絶え間ない探究心なんじゃないかと思います。

「見方・考え方を働かせて思考する」ことが研究テーマでしたが、一面しかなく、可動域が少ない上に高額で、存在感もある「電子黒板」という教具に、なんだかとても違和感を感じた授業見学でした。教育の中身や子どもたちはどんどんアップデートしていきますが、その環境を決定する大人の思考が追いついていないという教育現場の一面を見たような気がしました。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました!

共感していただけてうれしいです。未来の言語教育のために、何ができるかを考え、行動していきたいと思います。ありがとうございます!