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書評 『プレイ・マターズ 遊び心の哲学』 〜「遊び」から生まれる「学び」

今回は書評です。

ここ1年くらい、地域の仲間と読書会をしています。課題図書を決め、月1回のペースで集まって、読んだ内容について意見交換をしています。

異なる分野の人が集まり、それぞれの視点で読んだ内容について話し合うのは、いろんな気づきがあって、刺激的です。また、普段、自分では絶対に選択しない本を読めるのもおもしろく、強制力もあるので、なんとか読み切ることができます。その後の飲み会も楽しい(むしろ、こちらが目的か?)

最近は、3ヶ月くらいかけて『プレイ・マターズ 遊び心の哲学』(ミゲル・シカール著・松永伸司訳)を読みました。

ゲームクリエイターから提案された課題図書ですが、ゲーム関係者を対象として書かれた本です。こんな機会でもなければ、自分では絶対選択しなかったでしょう。ただ、実際読んでみて、意外な気づきがあったので、今回はその点について書いてみたいと思います。


「遊び」とは?

本書は、「Playful Thinking」シリーズの一つとして刊行された本ですが、「新しい切り口でゲームについて考えること」「ゲームという観点から新しい切り口でゲーム以外の物事について考えること」(p.4)を目的としているそうです。

副題からもわかるように「遊び」をさまざまな視点から考察しています。「遊び」は、誰でも知っている一般的な言葉です。しかし、読書会で話をして痛感したのですが、一口に「遊び」と言っても、個々の体験から全然違うものをイメージしているのです。

私の世代、そして、田舎では、子どもの頃の遊びと言ったら「木登り」「川遊び」「虫取り」のような自然を相手にしたものや、夏休みは爆竹、冬休みはゲイラカイト(わかるかな?)のようなやんちゃなものまで、とにかく外遊びが基本でした。

でも、読書会のメンバーには20代もいて、物心ついた時から「テレビゲーム」があり、「ニンテンドーで遊んでました!」という人もいます。「遊び」という言葉から想起されるものが全く異なるのです。これは、結構衝撃でした。

本書のChapter1では、「遊び」を以下のように定義しています。

  1. 遊びは文脈に依存する

  2. 遊びはカーニバル的なものである

  3. 遊びは流用的である

  4. 遊びは撹乱的である

  5. 遊びは自己目的的である

  6. 遊びは創造的である

  7. 遊びは個人的なものである

この定義を見てもわかるように、この本では「遊び」の本質を考察しています。「木登り」と「テレビゲーム」という体験だけを比較して議論しても、あまりにも違いすぎて、話が噛み合いません。「遊び」の本質を捉えるには、もっと抽象度を上げて思考していく必要があります。

そこで、本書に倣って、少し「遊び」の本質を考えてみたいと思います。

「遊び」を起点に思考する

Chapter2では、「遊び心(Playfulness)」について書かれています。ここでは「遊び心」は、「遊び」の態度であり、「遊びの生態系を広げる」(p.63)と説明しています。確かに、「遊び」に「心」がついただけで、本来「遊び」でないものに、遊びの要素を見つけることができそうです。

例えば、私はテストを作るときに、よく人気アニメの登場人物の名前を使うのですが、こういうのも「遊び心」と言えるかもしれません。ナミとかサンジという名前を見て、誰かテスト中に気づいてくれないかなとか、おもしろがってくれるかなあとか、完全に自己満足で、個人的な楽しみです。

Chatper3と4は、それぞれ「おもちゃ」と「遊び場」というテーマで書かれており、「遊び」の環境についての考察になります。「おもちゃ」も「遊び場」も、「遊ぶ」ことを目的に作られたものですが、「遊ぶ」ための環境がなくても、私たちは遊ぶことができます。私の子どもの頃の「遊び場」は、遊ぶために作られた場所ではなく、自然に生えていた木であり、勝手に流れている川であったりします。そこで振り回していた棒きれは、おもちゃではありません。しかし、子どもの頃を振り返ってみると、あれは確かに私にとっての「遊び場」だったなあと思うのです。

遊ぶことを目的に作られた「おもちゃ」や「遊び場」は、「遊び」を誘発するものです。しかし、遊びたいという気持ちがあれば、そのようなものがなくても、子どもは自由に遊びます。子どもだけはありません。大人であっても、「遊び心」があれば、テストのような「遊び」の文脈とかけ離れたものでも、遊ぶことはできそうです。そう考えると、「環境×遊び心」は、「遊び」の大きなファクターになりそうです。

Chapter5と6では、もっと概念的な話になります。それぞれ「美」と「政治」という一見、「遊び」と縁がない概念と比較しながら、「美」や「政治」の中にある「遊び」について考察しています。読み進めるうちに、どちらの概念にも「遊び」の要素が含まれて、「遊び心」を意識したときにこそ、その人が持つ「美」や「政治的な思想」がより強く表現されるのではないかと思いました。

そして、Chapter7では「デザインから建築へ」というタイトルがついており、ゲームをデザインするとはどういうことかについて考察されています。

最後のChapter8では、「コンピュータ時代の遊び」で、コンピュータという「電算処理」によって表現される機械と「遊び」との関係について論じています。

ここまで、通して読んでみて、ハッとしたことがあります。それは、「遊び」という言葉を「学び」に置き換えても、同じことが言えるのではないかということです。

「遊び」から生まれる「学び」

「遊び」と「学び」には、かなり共通する要素があるのではないかということに気がついたのは、Chapter7を読んだときです。

Chapter7では、主にゲームデザインについて書かれています。コンピュータゲームを例に出して考えると、ゲームをデザインするとき、コンピュータというシステムがベースになります。そのシステムを通して、ゲームに遊びの要素を取り入れ、プレイヤーをシステムという環境の中で遊ばせます。

この点に対し、筆者は否定的です。「遊び」とは、流用的で創造的で撹乱的であるから、そのような「遊び」を可能にしなければならないと考えているからです。「遊び」を通して、その人が持つ固有の「美」や「思想」を表現できるものでなければならないとも考えているようです。

さらに、このようなゲームをデザインするゲームデザイナーはどうあるべきかという問いも投げかけます。この問いに対しては、筆者は「遊びの建築家アーキテクト」と名乗るべきだとしています。「遊びの建築家アーキテクト」とは、「人々が自分自身を探究し表現するための場と、それをするのに適した小道具を提供する」人であり、人々に遊びをさせる人だというのです。

ここまで読んだとき、「遊び」を「学び」に置き換えても、全く同じことが言えるのではないかと思いました。

ここでいうゲームを「授業」、ゲームデザイナーを「教師」と置き換えたらどうでしょうか。教師は、「人々が自分自身を探究し表現するための場(教室)と、それをするのに適した小道具(教材)を提供する」人であり、学びを促す人だと言えるのではないかと思います。

ここで、改めて「遊び」の7つの定義を振り返ってみると、「学び」に共通する点も多くあると再認識しました。「学び」は、既存の知識を得るだけでは成り立ちません。その知識は、文脈に依存します。同じ知識でも、文脈が変われば、既存の知識が通用しなくなることもあります。だからこそ、他の文脈に流用できることが重要です。

そして、個々人が持つ経験としての知識を流用したり、ときには撹乱させたりしながら、探究を続け、個々の目的に合わせて創造的に自己表現できるようになる。これを「学び」と捉えることができるのではないかと感じたのです。そう考えると、教師を「学びをデザインする人」と捉えることもできます。

さらに、システムに縛られることなく、プレイヤーが創造的に自己表現できるようにするためにはどうすればいいか。そのためには、学びをデザインし、場や教材などの環境を提供しながら、教室の中だけにとどまらない「学び」を促すという「学びの建築家アーキテクト」としての役割が、教師にも求められるのではないかと思いました。

子どもは遊びの中から多くを学ぶと言います。これは、大人になってからも同じだと思います。「学び」と「遊び」というのは、何か対極にあるもののような気がしますが、本来、「遊びながら学ぶ」「遊ぶように学ぶ」ということがあってもいいのではないかと思いました。

最後に、本書のまとめとして書かれていた文章の「遊び」を「学び」に変えて以下に引用します。

「学び」は、わたしたちに世界を与える。そして、わたしたちは、「学び」を通して世界を自分のものにする。

ちょっと、自分に惹きつけて読みすぎたかもしれませんが、こんな「学び」を提供できる人になりたいなあと思いました。

以上、今回も最後までお読みいただきありがとうございました!

共感していただけてうれしいです。未来の言語教育のために、何ができるかを考え、行動していきたいと思います。ありがとうございます!