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人の賢さについて 技術の進歩と人間の進歩

今回は、人の賢さ~技術と人間の進歩~ということについて考えてみたいと思います。

残念ながら、訪ねたことはないのですが、名古屋市にあるトヨタ産業技術記念館では、豊田自動織機製作所時代からの産業遺産を保存しながら、近代日本の発展を支えた基幹産業の一つである繊維機械と、現代を開拓し続ける自動車の技術の変遷を学べるそうです。

技術の進歩は恐ろしいほど早く、あっという間に様変わりしていったものがたくさんあります。

電話もその最たるもので、私が幼少時代に家にあった黒電話と言われるダイヤル式の電話は今では、すっかり見かけることもなくなりました。見かけることがなくなったといえば、そこかしこにあった公衆電話もそのひとつです。

ダイヤル式の電話は、やがてプッシュホンになり、コード電話からワイレス電話へ。そして、公衆電話から携帯電話へ。携帯電話も登場したての頃は、お弁当箱のようなサイズの電話に肩紐がついたショルダータイプだったことを覚えています。

今や携帯電話もガラケーからPC顔負けどころか、昔の汎用機ばりの性能を有したスマートフォンを1人1台のように所有しています。

そんな技術の進歩は、新しい技術が折り重なり、性能の劣るものは新しい技術に置き換わりながら進歩を積み重ねています。斜め上に一直線の線を描くようにして進歩が進みます。

一方、人間の進歩は、それとは異なる様相を示していると思います。

仮に60年を寿命として人間のサイクルが営なまれているとしてみましょう。生まれてから、60年という歳月を経て、次世代に譲るというイメージです。

生れ落ちてから、ハイハイをして動き回り、立ち上がり、歩き始め、言葉を習得しながら大きくなっていきます。やがて幼稚園や保育園、そして小学校、中学校…、さらには、高校、専門学校、大学と学んで大きくなっていきます。

一人一人の人が、その適正に合わせて学校での学びを終えると、何かしらの職業に就くなど社会に出て、さらに様々なことを経験して学びます。結婚、出産、子育て、親の介護と自分自身が年齢を重ねるまでに本当に多くのことを体験して学んでいきます。

すべての学びが、進歩する良きものであるとは限りませんが、いずれにしても生れ落ちた時からすると身に着けたものも多くなることは間違いがありません。(赤子や子供たちにも素晴らしい感性などそもそも有している素晴らしい能力とかはありますが…)

ところが、亡くなる寸前の60年まで積み重ねながら学んだ見識・経験(体力でなく)は、老いによる影響を度外視して考えると時間軸に比例して、60才を最大にしてピークをむかえるはずです。しかし、60年で次世代に切り替わるときにその見識・経験は100%誰かに伝授されたり、引き継がれていくことはできないでしょう。

私的なことで考えても昭和初期に生まれ育ち、私を育んだ今は無き父親の経験を同じようにすることはできていませんし、その人生で感じてきた思いや考えに影響を受けた部分はあるとしてもその全てを受け継ぐなどということは全くできていません。

こうした見識・経験は、どの親子の間、世代間の間でも完全な形で受け継がれるなんてことはあり得ません。先の仮定の話をもとにすれば、60年ごとに積みあがった体験・見識は、一度チャラになりご破算になって新しく生まれ変わっていきます。そうして、新しい次世代が生き始めるわけです。

ABCDEさんと5人の人が、同時に生まれたと仮定を加えて考えてみると60年後には、ABCDEさんの次世代の人が新しく積み上げた見識をチャラにしたゼロの状態で、人生をスタートするわけで、ここに歴史は、繰り返すことの理由があるように思えてなりません。

戦争を例にとれば、戦争を実体験した人々が生きている時代は、心から平和を希求する思いが共有され、社会はその思いを踏まえて動いてきたことでしょう。しかし、戦争を知らない世代が世の中を構成し始めるや否や「新しい戦前」と称されるように異なる思いが世の中を覆いつくすことになります。

「戦争を知っているやつが世の中の中心である限り、日本は安全だ。戦争を知らないやつが出てきて日本の中核になったとき、怖いなあ」

田中角栄の言葉

技術の進歩が右肩上がりの一直線だとすれば、人間の進歩は、右肩に上がったラインが、一度ゼロに戻るスパイラルのような軌跡を描くイメージになると思います。

技術の進歩が蓄積されるのに、人間の進歩が蓄積されないのは恐ろしいという話をした時にある大学教授が、「技術の進歩に代わる人間の進歩の蓄積を担保するものは書物ではないか」という話をしてくれました。

技術の進歩が込められたもののように先人の残した書物に親しみ歴史を知り、そして、生命のサイクルの中にいただけでは引き継がれ、受け継がれることのない見識を得ていかなければ、歴史をスパイラルにただ繰り返してしまうことになってしまいます。

私たちは、人間という生き物が時間軸の経過とともに賢さを身に着けていきながら社会を象っているわけではないことをしっかり認識して上で、物事を考えていく必要があります。そうしなければ、今までもそうであったように「歴史のスパイラル」でもある愚かしい過ちを繰り返してしまうことになってしまうからです。

社会がより良い発展的なサイクルにあって進歩・発展できるようにするためにも先人の残したものに学び、空間と次元を超える想像力を駆使して自分の頭で考えることが必要なのではないかと思っています。


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