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【これが愛というのなら】退職




元カノが来た日


ずっと病棟勤務だった望の彼氏の元カノが、外来に配属されたのだ。

元カノのことを知っているのは、私しかいない。

そして、彼氏の馬鹿が、「現在の彼女の名前と勤務先」を伝えてしまっていたので、元カノも望のことを認識している。

元カノは望より5歳年上、高校卒業してずっと働いていた。

また、外科の森山部長の不倫相手でもある。

元カノは、望に難癖をつけて嫌味を言い絡んでいるようだ。

私は病棟勤務で、望がどんな風に虐められていたのか分からない。

カルテ搬送係のリーダーが、休憩室で私に話しかける。

「なんだか異常なのよ、あの人」

望が「彼氏の元カノ」と私以外相談していないなら、私も話すわけにはいかない。

たまに外来で見かける望は、でも変わらず元気そうだった。

揺れた心


望は、週に3回、仕事が終わった後スカッシュをしていた。

ルールもなにも分からないではじめたが継続することで、試合の選手になることも増えて、楽しそうにしている。

私は残業もなく帰ろうとしたある日、更衣室で望と会った。

「一緒に帰りましょう!」

望の誘いに私もうなずく。

望の好きなラーメン屋に行き、少しドライブをしてから、海辺の公園に車を停めておしゃべりをした。

仕事の愚痴は言わない。

元カノの事もほとんど言わない。

そして

「スカッシュをずっと一緒にしてる人とすごく気が合うのだ」

そう、帰り際に話し出した。

「そうなんだ」

「話しも面白くて、こないだ夜中まで話してしまって」

「仲良しでいいなー」

「うん、今度なぎさんにも紹介したいの、彼」

「え」

「仲良し」だという人物を、ずっと「女性」と思い込んでいた。

望は屈託なく、笑って続ける。

「こんなに話していて楽しいの久しぶりなの」

しかし、声のトーンを落とした。

「…彼氏さんに、ずっと元カノさんから連絡があって」

「……」

「無視したらいいと望は思うのだけど、彼氏さん、望の前でも電話に出てしまうの」

『彼氏さんの優しさ』と思い込もうとしている望の気持ちが、だが揺らいでいるのは分かった。

退職


病棟で知り合った先生が、開業すると聞いた。

「基幹病院との連携を作るクリニックを開きたい」

そんな言葉に、私は久々に「仕事」への情熱を取り戻した。

病棟勤務は、毎日毎日同じ作業をするだけだ。

手術も、まれに「この術式なに」と言う物もあったが、だいたい決まり決まったこと。

だからといって、今更外来スタッフに戻りたいわけでもなかった。

私は開業する先生に、自分の経歴を告げ

「一般募集するときに普通に応募します」

とだけ伝えた。

翌年の2月、ハローワークに募集がかかり、私は応募した。

新規開院のクリニックの医療事務は人気で激戦だった。

書類選考、面接、論文、最終選考。

3月、私は先生から呼び止められる。

「5月オープンから、よろしくお願いします」

先生は優しい笑顔で私に言った。

1月には、3月末で退職することを伝えていた。

無職になる可能性もあったが、直前に卑怯な手を使って辞めた理恵のような事はしたくなかった。

何度も話し合いの時間を作られたが

「こんな時間があるなら、後任を決めて引継ぎ作業をさせて下さい」

何日目かで、とうとう向こうも諦めた。

3月31日。

最後の出勤日。

私は、最後の仕事のうち、一番大きいだろう手術の伝票を取り出した。

昨日14時から始まった手術は、変わった術式で、先生も看護師も緊張していた。

手術伝票が、3枚あった。

トラブルが発生し、主任クラスの先生が再手術、深夜に帰宅していた部長先生が呼び出され、再々手術。

患者は、昨日まで歩いて喋っていたのに、半身麻痺で自発呼吸も出来ない状態で、二度と回復は望めないだろう。

そのあたりは、医局と医事課長にどうにかしてもらうとして、私の仕事は、「このOPで使われた薬品、材料をどこまで算定する」かだ。

2回目以降の手術点数はもちろん取れない。

しかし、この膨大な薬品や高価な材料は?使ったものは算定可能では?

全部請求しないとなると(患者にはもちろん請求しないがレセプトでも請求しない場合)、1000万円以上の損失になる。

17時まで出来ることをして、「5月までは時間があるので、バイトとして来ようか?」と上司に相談したが、固い顔のまま拒否をされる。

23時までかかって、レセプト請求してもいいラインを見つけて、残りは後輩にまかせた。

帰ろうとすると、医事課長が走り寄ってきた。

「なぎさん、お疲れ様でした」

そして、照れたように右手を出した。

「最後に、握手させてもらってもいいかな?」

課長は、医事課スタッフの苦労を一番分かって、出来る限りの事はしてくれていた。

私は課長の手を握り返して、そして、病院を去った。

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