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勉強の時間 人類史まとめ8


『世界史の構造』柄谷行人2


ABCの3点セット


こうして見てくると、近代は経済の交換様式Cとそれを管理・制御する政治の交換様式Bで成り立っているような感じですが、交換様式Aは古い仕組みとして衰退したのかというとそういうわけではないようです。

国家が出現して交換様式Bが大きな影響力を持つようになってからも、交換様式Aはいろんなかたちで生き続けたし、今も生きていると柄谷行人は言います。

たとえば古代ギリシャのアテネは民主制が生まれた都市国家というイメージがありますが、社会は氏族つまり交換様式Aの人的つながりで成り立っていて、その上に国家の政治システムとして交換様式Bが乗っていたとのこと。

アテネをはじめ古代ギリシャの都市国家は市民=兵士でした。

もともとあった氏族=交換様式Aが軍団の基盤を成していたから、民主制になってもそういう基盤はなくならなかったんでしょう。

市民=兵士ということは、常に体を鍛えたり軍事的な訓練をしたりしていなければならないわけですし、農作業に追われていてはそういう鍛錬・訓練はできません。市民はそういう作業を奴隷にやらせて、自分はそれを管理するだけの特権階級でした。古代には戦争で国を征服して、負けた国の市民を奴隷にするということがあたりまえに行われていたのです。

ただ、征服された奴隷に作業をさせて農業を営むだけでは、国は発展しません。それでギリシャ人は地中海から黒海沿岸のあちこちに進出して、新しい植民都市を建設しました。そこでまた同じような国家運営をやるわけです。

それでもひとつひとつの都市国家は、軍事的に征服して支配するだけでは、発展性がありません。そこでアテネでは国外に鉱山を開いたり、国外から海運業者などの商工業者を受け入れたりして経済を活性化させました。ここでも事業の現場は海外から移住した商工業者や奴隷でまかない、アテネ市民は利益だけ吸い上げます。おかげでアテネは古代ギリシャの都市国家の中でも群を抜いて豊かな国になりました。

豊かになったことから、みんなが自分の意見を主張する、より進化した体制である民主制が生まれたと言うことができるのかもしれませんが、実態はそう単純なものではないようです。


不安定だった都市国家アテネ


経済が発展すると、貧富の差が生まれてきます。

事業が成功して大金持ちになった市民と、新しい事業にチャレンジしなかったため豊かになりそこねた市民のあいだに格差が広がります。

軍事国家ですから市民各自が武器を自費で持たなければならないのですが、あまり貧しいとそれができない人が出てきます。そういう人でも収入が確保できるように、アテネでは行政区を整理して役所を設置し、そこで働く役人に給料を払うようになりました。

つまりもともと交換様式Aで成り立っていた軍事組織、軍事国家が、交換様式Cの経済で豊かになり、その影響で国家を交換様式Aと関係ない行政区に整理し、交換様式Bによる新しい国家体制を構築したわけです。

アテネの民主主義の仕組みも、この交換様式Aと交換様式Cの相互作用の中で生まれてきた、特殊な交換様式Bによる統治様式だったと見ることができます。

アテネの民主制は女性も奴隷も参加できない、市民=兵士のみによる直接民主制ですが、直接民主制というのはバイキングとか古代の騎馬民族などにも見られたもので、特に進歩的な体制ではなく、古代の軍事国家にありがちな体制と言えるかもしれません。

しかも、アテネの民主制は交換様式Aから抜けきれない党派による闘争の連続で、未熟な国家=交換様式Bをめぐる権力争いで、リーダーが次々リコール投票で追放されました。

結局市民の感情に訴えて国をおかしな方向へ導いていくデマゴーグ、扇動家が現れて、アテネはシチリアの有力都市国家であるシラクサに必要のない戦争をしかけ、1万人とも言われる死者を出したり、経済発展から背を向けて軍事力を磨いてきたスパルタとの戦いに負けたりして衰退してしまいます。

やがて地方の後進国だったマケドニアが軍事大国化すると、これに呑み込まれ、さらにイタリアの後進国だったローマが世界帝国へと成長していく過程で、帝国の中に組み込まれてしまいます。

それでも古代ギリシャ、特にアテネが後世まで名を残し、近代ヨーロッパにまで影響を与えたのは、不安定な政治体制の中でアテネ人が自由や美や自己主張の実現方法にこだわり、世界や自然の成り立ちを探究する中で、思想や科学、文化の基本原理を発見しようとし、色々な著作にそれを残したからです。

その成果はある意味、古代ローマに受け継がれ、ヨーロッパ型の帝国建設に活用され、ヨーロッパの中世から近代につながる制度や学問になっていきました。


日本の交換様式ABC


ところで、日本の歴史ではこの交換様式ABCはどんな感じで機能してきたんでしょうか?

日本では古代に大和朝廷が全国的な権力を確立したときも、最初は複数の有力な豪族から成る寄り合い所帯的な政権だったようです。

地方の豪族も、朝廷に武力でかなわないから服従して租税も差し出すけど、それなりの独立性は維持されていました。

つまりその仕組みは交換様式Aであって、Bではないわけです。

それが交換様式Bによる中央集権的な国家になったのは、のちに天智天皇になる中大兄皇子が大化改新で有力豪族の筆頭だった蘇我氏を倒し、全国の農地を国有地として税を取り立てるようになったあたりからでしょうか。

『世界史の構造』は世界史の仕組みを解明している本なので、こういう日本史の事情みたいなことは書いてありませんが、交換様式ABCの説明を理解するのに役立つと思うので、この本を読む合間に僕が日本史について考えたことを少し書いてみます。

大化改新で中央集権的な国家が形成されるようになった後、朝鮮出兵と白村江の戦いの敗北、壬申の乱という内乱を経て、天智の弟とされる天武天皇が、唐の仏教ベースの統治を取り入れ、当時の中国つまり唐を模範とする交換様式Bの国家が成立したようです。

この国家体制は天武の妻であり天智の娘とされる持統天皇に受け継がれ、その息子の聖武天皇が、全国に国分寺を建て、国府や街道を整備した奈良時代あたりで、唐型の中央集権国家体制は完成したと見ることができます。


崩れ出す国家体制

しかし、次の平安時代になると中央集権国家はだんだんガタついてきて、地方の勢力は国有だった農地を中央の有力貴族に寄贈して荘園という私有地にしてしまいます。

中央の統治が地方に行き届かなくなり、地方の土地をめぐって実質的な支配者である地方の豪族のあいだで争いが起きるようになり、戦いの中で「武士」と呼ばれる武装勢力が力を持つようになります。

この過程で交換様式Bによる国家の運営はだんだんあやふやになっていきます。

中央で藤原氏があまりにも権力を独占してしまい、国の農地を私物化したり、貴族の出世とか左遷を自分たちの都合で決めたりしだしたところから再び、交換様式Aが優勢になったと見ることもできます。

貴族の下にいた武士の社会でも、親分的な統領が家臣を束ねるやり方は交換様式Aだったと言っていいでしょう。



「武士」の登場


武士はもともと地域の荘園を守っていた地回り的な武装集団です。

武士の起源は、飛鳥時代・奈良時代の中央集権国家成立以前から地方にいた豪族とその配下だったのかもしれませんが、関幸彦の『武士の誕生』(講談社)によると、そこに中央から派遣された軍団が加わり、争いを繰り返しながら、だんだんと「武士」という、貴族とは違う階級になっていったとのことです。

武士の集団は統領による「ご恩」つまり庇護・統率に、家臣が「ご奉公」で応えるという互酬関係、つまり交換様式Aで成り立っています。

統領が家臣に領地の安泰を保証するかわりに、家臣はいくさで命を惜しまず戦うわけです。もし家臣が死んでも、その弟とか息子が跡を継いで、その家と土地は守られるので、家臣は安心して戦うことができます。

平安時代末期に武士は政権を握り、やがて鎌倉幕府による武士の国家ができるわけですが、それが交換様式Bの中央集権国家だったかというとそうでもなく、交換様式Bの政権は有名無実化したとはいえ、あくまで朝廷でした。

武家社会はその有名無実な交換様式Bの国家の下で、交換様式Aの親分子分的な社会を運営した。これが日本の政治の特殊性を生みだしたと言えるのではないかと思います。


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