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勉強の時間 人類史まとめ5

『暴力の人類史』スティーブン・ピンカー3


『暴力の人類史』スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒訳 青土社


精神的な暴力

 

もうひとつ、僕がスティーヴン・ピンカーの合理的な論調に感じた疑問は、近代以降に暴力や残虐性が減退していると彼が言うとき、過去の価値基準を現代に当てはめているのではないかということです。

この本では人口の変化に応じて、暴力の犠牲者の数を調整していますが、つまりこれは人口が増えた近現代の事象を過去と比較できるようにするため、過去に近現代の犠牲者と人口の比率を適用しているわけです。おかげでデータの中で過去の犠牲者はものすごく増え、近現代の犠牲者はものすごく減りました。

一方、暴力から人が受ける被害の内容については、怪我とか死とか、肉体的にとらえられるものしか取り上げられていません。

近現代に人口比率で調整した暴力の犠牲者が減ったということは、それだけ人の命の価値が上がったということです。つまり、1人の犠牲者についての残酷さは、近現代と古代や中世で違ってきているはずなんですが、そこについては調整されていません。

つまり犠牲者の数は近現代の変化を過去に当てはめて調整しているのに、暴力から犠牲者が受ける残酷さについては、過去の尺度のまま調整していないわけです。

これは果たして合理的でしょうか?

暴力には、過去の価値基準をそのまま当てはめることができる、虐殺とか拷問とか障害といった暴力以外にも、精神な部分が破壊される暴力というのがあります。

たとえば中南米やアジア・アフリカでは、16世紀の大航海時代からヨーロッパ人による侵略・制服・植民地支配があった20世紀前半まで、ヨーロッパに征服された先住民が、政治的・経済的基盤だけでなく、宗教や文化など精神的な部分を破壊され、ヨーロッパの価値基準に従って生きることを強制されました。

先住民の中からヨーロッパの文化を受け入れ、ヨーロッパ的な近代人として生きるようになった人たちも生まれましたが、多くの先住民がヨーロッパ的な価値観やシステムに馴染めないで、今も貧しいまま生きています。

先進国の人たちはこういう先住民を怠け者と見なし、貧しいのは自業自得と考えがちですが、果たしてそうでしょうか?

先住民は、身近に存在する精霊と呪術によって交信し、占ったり病気を治したりしてきた人たちです。キリスト教とかイスラム教とか仏教とか儒教といった普遍的・体系的な思想で社会を制御する文化も、中南米やアジア・アフリカには存在しますが、理解したり制御したりするのは特権階級だけで、一般の庶民は原始・古代と変わらない精神世界に住んでいます。

そこに、近代の初めに世界でいち早く科学と経済の時代に突入したヨーロッパ人がやってきて、先住民の社会・文化を破壊して、ヨーロッパのシステムを強制したわけです。

先住民はヨーロッパ文化を受け入れることで、自分の精神の中に矛盾やストレスを抱え込みました。文化を破壊された人はストレスに冒されて無気力状態に落ち込みます。

アジア・アフリカ・中南米では農業も商工業も発展せず、先進国からやってきた移民や企業に産業を支配されていて、多くが仕事もなく貧しいままです。僕もこうした地域を旅行したとき、仕事もせず無気力に生きている人たちをたくさん見ました。

先進国の人たちは、先住民の無気力さを不思議に思うかもしれません。しかし、彼らにとってヨーロッパ的な合理性はとても違和感のあるものなのです。

若い頃からアジア・アフリカで暮らしてきたポール・セローという作家が、アフリカを縦断しながら書いた『ダークサイド・サファリ』という旅日記には、アフリカの農村地帯が国際機関の援助にも関わらずどんどん貧しくなっていて、政治家や役人は堕落して、国が荒廃していきつつある様子が書かれています。

先進国が自分たちの技術や合理的な仕組みを、いいと信じてアフリカ人に押しつけているけれど、アフリカ人には昔からのやり方があり、それを否定して、ヨーロッパ流のやる方を押しつけても、彼らは適応できず、無為になってしまうのだとセローは言っています。

『ダークスター・サファリ』ポール・セロー 北田絵里子/下村純子・訳 英治出版


ソフト化した暴力 


そういえば最近、テレビで日本人がアフリカの村に水を処理する施設を建設して、現地人を教育して運営を任せたのに、何年かして行ってみたら、施設は止まっていて、それには機械の故障とか、なんらかの理由があったようですが、そういうトラブルを誰もなんとかしようとしていなかったというのを紹介していました。

こういうのを見ると、アフリカ人は原始人に近いから、何を与えても、やり方を教えてもだめなんだと考える人がいるかもしれません。

しかし、そもそも近代的な技術とか合理的なシステムは、近代的な学校教育や軍隊による訓練を徹底的にたたき込まれて初めて人間の中に組み込まれるものです。欧米人も日本人も近代化の初期にそういう時期を経て自分たちを改造したのです。

そういう国を挙げての人格改造を経ていない多くのアフリカ人にとって、いきなり日本の技術者が施設を作って、操作方法を教えても、根本的に受け入れる人格がないわけですから、日本人がいなくなって、設備が故障すれば、なんとか修復して運営しようといったことにはなりません。

人間というのは元々そんなに合理的にできているわけではないからです。

アフリカ人だけでなく、先進国の人たちでも、技術や経済の知識・ノウハウが苦手な人はいますし、知識・ノウハウを学んで技術者やビジネスエリートとして仕事をしている人でも、合理的なものに違和感を覚え、ストレスをふくらませている人たちはたくさんいます。

だから多くの人が酒や娯楽でストレスを解消するわけですし、何をやっても解消できずに病んでいく人もたくさんいます。

この精神的な障害は、古代・中世の暴力による被害とまったく別物でしょうか?そこから生まれる傷は、虐殺や拷問に比べれば取るに足りない小さく軽いものでしょうか?

昔は暴力が支配の手段だったのが、近現代になって科学と経済が支配の手段になったことで、暴力がソフト化し、暴力の被害が見えにくくなっているだけではないでしょうか?

科学や経済や法律を活用して増幅される現代のパワーとそのシステムに適応できず、ひきこもったり病んで自殺したりする人たちが増えているのを、ただの精神的なトラブル、病気として片付けていいものなんでしょうか?

スティーヴン・ピンカーのような心理学者にとっては、現代人のこうした精神的な障害にもメカニズムがあり、回避や修復は可能なものなのかもしれません。

そうした合理的な認識や判断自体をストレスと感じる部分が、人間の中には存在するんだということを、科学者たちは認めないのかもしれませんが、その合理的な割り切り方、非合理なものの否定こそが、科学と経済の時代である近現代に、非合理的な衝突や暴力がなくならない原因なのではないでしょうか?



人間が合理的になれない部分 


こういうことを言うと、「じゃあ、あなたが言う『人間の非合理的なもの』って何なの?」と言われるかもしれません。

これを説明しようとするとけっこう哲学的になってしまうので、ここ数年スピノザとかカントとかヘーゲルとかハイデガーとか、哲学本を読んで勉強しているところなんですが、たぶん科学と経済の時代にも宗教がなくならないことや、民族主義的、国家主義的、人種差別的な憎悪や敵意が何度となく戦争につながったこと、今またそういう非合理的なものが勢いを増していることとつながっているんでしょう。

『サピエンス』のときにも言いましたが、人間の非合理性はあらゆることにつながるテーマなので、これからいろんな本や考え方に触れながら、繰り返し考えていきたいと思います。

あともうひとつ、「精神的・心理的な暴力の被害は、近現代でなくても昔からあったし、昔のそういう被害は数値化できないから、近現代の被害だけを取り上げるのは意味がないのでは?」とか「あなたが言うとおり、価値観は時代によって変わってきたんだから、昔の精神的被害より近現代の方が多いとか深刻だといった比較はできない。だからここで取り上げるべきではないのでは?」という反論もあるかもしれません。

たしかに、暴力を昔の定義のまま扱うとそうなるでしょう。

でも、時代と共に世界や人類が、政治のかたちや文化が変化してきたなら、暴力の基準にも変化があったとして、なんらかの調整をしないと、フェアな比較はできないんじゃないでしょうか?

印刷技術が発達して出版物が普及し、啓蒙思想が世の中に浸透したとしたら、暴力の残虐性に対する感度もアップしたでしょう。となると、同じ肉体的・物理的な暴力が、昔より近現代ではより残酷だということになるんじゃないでしょうか?

それを数値化するのは難しいかもしれませんが、もし残酷指数みたいなものを数値化して、暴力のデータを調整したら、近現代の暴力は一気に増大するかもしれません。

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