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勉強の時間 人類史まとめ4

『暴力の人類史』スティーブン・ピンカー2


理性を超えるネガティブな国民感情


戦争やジェノサイドなど大規模な暴力は国家・民族レベルで行われますが、なぜ国家とか民族はそんな暴力を振るうんでしょうか?

歴史を振り返れば、ドイツのナチスをはじめとするファシズムも、ロシアや中国の国家社会主義も、過去の戦争や侵略、あるいは資本主義経済の競争で深刻な被害を受けたという国民感情から生まれています。

今の中国やロシアにも、欧米先進国から政治的・軍事的・経済的な圧力を受け続けてきたという潜在的な被害者意識があり、それが欧米諸国からは不可解に見える数々の軍事行動や、国内の弾圧などを生んでいます。

世界経済がグローバル化し、誰もが戦争はこのグローバル経済にとってマイナスだと考えているでしょうが、一方ではこうした非理性的な国民感情が世界的にくすぶっていて、そのはけ口を求めています。

国家も民主制・独裁制を問わず、こうした国民感情に煽られたり流されたりしながら、お互いの行動を非難し、対立をエスカレートさせていく可能性は十分あるでしょう。

20世紀の第一次世界大戦は大国どうしが、科学技術によって飛躍的に進化した武力の危険性を十分理解しないまま始めてしまい、その結果誰もが予想しなかったような大量の死者を出しました。

第二次世界大戦は、第一次世界大戦の敗戦国であるドイツで、敗戦による過酷な経済制裁と残酷な貧困、混乱、絶望から、ナチスのような民族・国家的な狂気が生まれたことが発端になりました。

第一次世界大戦の敗戦国ではなかったイタリアと日本も、大恐慌のダメージから抜け出すために、軍国主義へと傾斜していき、アメリカやイギリス、フランスと対立するようになり、ドイツと同盟を組んで戦うことになりました。

第二次世界大戦は、第一次世界大戦よりさらに技術的に進化した武力を総動員して戦われたため、さらにおびただしい犠牲者を出しました。

その後70年のあいだに、武力はさらに進化し、自分たちを危険にさらさずに敵を壊滅させることができるようになっています。

一方で、そうした進化した武力を持たない勢力は、陰湿なテロで対抗するようになりました。

どちらも相手の戦闘員だけでなく、一般市民を巻き添えにします。

実際の戦闘やテロで命を落とす人数は、過去の歴史で死んだ人数より少ないかもしれませんが、いつ大量破壊兵器が使用されるかわからないとか、いつテロに巻き込まれるかわからないという恐怖は、それに劣らず残酷なものです。

今エスカレートしつつある対立がさらに進めば、色々な国の国民がもっと理性を失い、人種差別的あるいは民族憎悪的な感情に突き動かされるようになる可能性もあります。

それはスティーヴン・ピンカーのような知識人が本の中で訴える人間の知性や良心といったものとは関係なく生まれ、猛威を振るうのです。



誰もが多重人格だとしたら


『暴力の人類史』では、「内なる悪魔」という章で、人間の中に潜む悪魔的な部分を心理学的に解説しています。

そこではこういうネガティブな心理のメカニズムが明快に語られていて、これをみんなが理解すれば、馬鹿げた感情に流されることはなくなりそうです。しかし「みんなが理解する」ということの中には、ものすごい困難が隠れています。

まず、知性で理解する人は人類のごく一部でしょう。

多くの人は世界に残酷さや不公平、くだらなさにうんざりしていて、それが何なのか深く考えようとしません。そもそも多くの人は、インテリの大学教授が人類と世界について書いた本なんて読みもしません。一部の知的な人たちがこの本を理解して、悪魔を遠ざけ、よいことをしようとしても、人類の多くが彼らの言うことを理解しなければ、世界はよくならないでしょう。

これに続いて「善なる天使」という章では、元々人間が持っている他人への共感とか理性とかモラルといったもの、自分だけでなく他人も幸福であってほしいと感じたり考えたりする性向が科学的に解説されています。悪の部分も善の部分も理性的、科学的に理解し、判断すれば、人類もこの世界もよりよくなっていくというのが、この本の主張です。

しかし、ほんとにそうでしょうか?

人道的な考えは誰でも持っているでしょうし、人は人種とか民族に関係なく平等ではないかと言われれば、多くの人がそうだと言うでしょう。戦争は望ましくないのではないかと訊かれれば、望ましくないと言うでしょう。

しかし、そういう人たちも仕事では、自分の国の通貨や経済の力のおかげで、貧しい国との取り引きを通じて利益を上げています。

「それはフェアではないのでは?」と言われても、「自分は大きな組織の駒に過ぎないのだからどうすることもできない」と答えるかもしれませんし、「資本主義というのもそういうものなんだよ」と言うかもしれません。

大人は誰でもいろんな顔、いろんな人格を持っています。プライベートではいい人でも、仕事ではそうとは限りません。自分の会社が外国の貧しい国々の弱みにつけ込んで儲けていても、なんとも思わないかもしれないし、思ったところでどうしようもないと考えているかもしれません。

ひとつの会社が良心的になっても、国の産業全体、あるいはグローバル経済がそうでなければ、何にもならないからです。良心的になろうとして会社の利益を削って貧しい国の人たちの取り分を多くしたら、利益が減って競争に負けるかもしれません。

多くの大人はそういう厳しい競争の世界で仕事をしていて、そこでは別の人格が存在するでしょう。



現実の残酷さの合理的な受け止め方


僕が若い頃、アジア・アフリカで人が大量に餓死しているという話をしたら、「それで世界の人口が調整されてるんだよ」と、わかったようなことを言う友人がいました。

アジア・アフリカは貧しいのに子供をたくさん生む家庭が多いし、人口が爆発的に増えたら食糧危機が起きるから、人口が増えている地域でたくさん人が死ぬのは合理的な調整だというわけです。

その合理性の裏には、強い国や企業が自分たちの国の法律に則って、合法的にビジネスを展開して設けているかぎり、弱い国や地域で人がどれだけ死のうとかまわないという、弱肉強食の論理が隠れています。

人口調整のためにかなりの人間が死ぬ必要があるというだけのことなら、餓死するのはアジア・アフリカの貧しい人たちではなく、欧米や日本のような経済的強国の国民でもいいわけですが、現実には貧しい地域の弱者が死ぬわけです。

人口調整を持ち出した友人は、それは知ったことではないし、自分のせいじゃないと考えていました。

「そもそもアジア・アフリカでは貧しいくせに避妊もせず、子供をどんどん生んでしまうやつらがたくさんいるから人口が増えるんだ。つまり子供が餓死するのはやつらのせいなんだよ」と彼は言っていました。

国際機関は貧しいのに子供をたくさん作ってしまう家庭に性教育したり、コンドームを配ったり、食料援助や医療援助をしたりといった、援助活動をしていますが、問題はそういうことなんでしょうか?

そもそもなぜ先進国ではそういう餓死が発生しないんでしょうか?

子供が大量に生まれても、家庭や社会に食料を確保する力があるからですし、大多数の人が経済力に応じて子供を作るからです。

先進国ではそれが当たり前になっていますが、それはそれなりの経済力や福祉制度、教育制度が整っているからできることですし、その基盤には経済や政財、文化などを含めた国力があります。

つまり強国だからできるわけです。

自由主義の仕組みを活かして国際的な取り引きをしているかぎり、強国は常に弱い国より儲けますし、弱い地域に生じた不満は、強国にとって共産主義者とかゲリラとかテロリストとかギャングといった悪者の姿をとって表面化するので、国際的に支障をきたすものは武力的に排除することができます。

こうした弱肉強食の原理が機能しているかぎり、人間がもっと理性的でモラルを大切にするようになり、弱肉強食から得られる利益の一部を使って、そこから生まれる不都合に補償をさらに増やしたところで、根本的な問題解決にはならないでしょう。

経済や政治が弱肉強食の原理で動いているかぎり、そこから得られた利益の一部で、弱者や敗者に施しをしても、弱肉強食はなくならないし、慈善的・人道的な救済は強者・勝者の必要経費の一部になり、弱肉強食のゲームで強者・勝者は勝ち続け、ますます強く豊かになっていくでしょう。

『暴力の人類史』の帯には、「私が読んだなかでもっとも重要な本の一冊」というビル・ゲイツの賛辞が載っていますが、これもこの本の立ち位置を象徴していると言えるかもしれません。

パソコンの黎明期に基本ソフトの覇権を握って莫大な富を築いたビル・ゲイツは、ビジネスから引退後に何兆円という資産の一部で財団を設立し、いろんな慈善活動やSDGsに沿ったビジネスや技術の開発への援助を行っているようです。

その活動自体はよいことですが、結局のところ弱肉強食の原理で莫大な富を構築していく勢力が、その原理によって生まれた膨大な弱者に多少の施しをしたり、弱肉強食の原理が生みだした地球規模の不都合を多少なりとも軽減するために投資しているにすぎません。

ビル・ゲイツにとって『暴力の人類史』が価値を持つのは、彼にとって都合のいい弱肉強食の原理をそのまま温存しながら、人類がよりよい方向へ進んでいけるという希望を与えてくれるからでしょう。

この本に多くの人が反感を覚えるのは、そういう深いところにまやかしがあると感じているからなのかもしれません。


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