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関係性の中で紡ぐ、わたしの"トーチ"のための本づくり

多くの優れた小説がそうであるように、はじまりは自分がすっかり蚊帳の外からフィクションを楽しんでいるつもりで油断していたところ、あまりに突然にリアリティが立ちのぼるので、かえって印象的な作品となった。
そんな映画を見た。

映画館を出て歩き始めると、映画の前は確かに自分の暮らす世界だったその景色が遠く乖離して見える。都合が良いので、まだストーリーの中を歩いている心地を道端に捨てずに、いつだって曇天の空の下のような神泉の裏道を抜けて246の大坂上へと出る。

喉につっかえるものを感じて、ひとまずのベンチを見つけて座ったら、そのままこの後を書いた。

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今年に入ってから、本を作る準備を始めている。
この間、人に「前からその構想はあったんですか?」と聞かれて思わず「いえ、全くないです」と答えて笑われてしまったのだけど、「いつか本を作りたい」という気持ちはあっても、「どうして本を作りたいのか」そういえば考えたことなかったなと思って正月にそこから考え直した。

普通に思っていることを言葉にするだけでも大変なのに、一冊の本にまとまるように言葉と言葉をつなぎ、膨らませていく作業は、まるで空気を粘土として捏ねるように無理のある作業だ。

今週に入って実際に短いエッセイと、一編の詩を書いてみたら、これは大変な世界に足を踏み入れてしまったと頭を抱えた。
本を書き終えるまでに脳みそが爆発してしまいそうな気さえするし、特に恍惚となる快感は何もないのだけれど、こんな風に表現がしたかったのだと無我夢中になる自分がいた。書いていると、世界の音が一切遮断される。

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書くことは水の中で潜水している時間に似ている。
誰も歩いていない雪の上に全身をあずけて寝転んだ時にも似ている。

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他者と一対一で対話をする「パーソナルセッション」をはじめて4年目となった。このあいだ集計してみたら400人以上の人間と話をしていた。悩み相談があってくるのだから、それはわかりやすく「ケアの仕事っぽい」のだけれど、一方で日々営んでいるカレー屋もケアっぽい場になっている。

何が起きているかというと、普通にカレーを出したらそれを食べ始めた人が、ふと振り返った時に静かに泣いていた。とか、
「あの日はありがとうございました」といって、りんごやパンやお菓子を持ってくる人がいる。お坊さんになったような勘違いをしそうになるが全然違う。カレーを食べることで心身の変化を感じる人がここにはいるのだ。カレー+ケアを提供するカレー屋。

まるで他人事のように書いたのは、ケアを仕事にするとどこまでいっても「する/される」の上下関係から解放されることがなく、わたし自身がこれだけを続けたらいつか壊れてしまいそうだと気づいて、少し離れたところから自分を見るように練習しているからだと思う。

セッションのような対話であっても、対話をしたいと思った側が場を発動させた時点で「する/される」の優位性、劣性が生まれてしまう。
本来の「ケア」の概念はもっと広いとわたしは思う。
ケアされる"あなた"とケアする"わたし"をもう一つ広い輪でみたときに誰かがケアし、ケアされ、数珠つなぎのように広がるほどよい相互依存の輪を指すのではないか。というか、そうであってほしい。

アーユルヴェーダの治療でも、そこに携わる人の参加しようとする積極的な姿勢が必要とされる。けれど実際には、多くの人が一方的に「される側」の表情を浮かべて、癒されようとしてその場に訪れる。

癒されようとすることは何も悪くない。みんな大変なのだ。面白くないのは「する側」として先に自分をひらくわたしの身体だ。みんなに身を預けてもらっても大丈夫だよ、とこの先ずっと、ひらき続けることはできない。
そんなことをしたいと思っていないからだ。

同じ靴を履こうとすることはできる、でも全く同じ靴を履くことはできない。それが共有できたと思う日もあれば、そうでもない日もある。
互いの顔を見つめて、抱きしめたいわけではない。同じ方を向いて、歩く練習をしたい。それができる人も稀にいるけれど、手を差し伸べないと歩き出せない人もほとんどだ。

本づくりは、「ケア」を表現してみたいと思って始めたのだ。そして、する/されるの二元論的な関係性になりがちなクライアントとの間に置くために、わたしにとっての理想的なケアを形にしてみたくなったのだと今になってわかる。

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この「おやすみなさいのまえに」というマガジンを書き始めた頃「自分の弱さとか痛みの経験を開示するのは礼儀として当たり前にやろう」と考えた。ケアし、ケアされ、という上下関係や優位性から解き放たれて、バランスの良い相互依存の輪を広げていくのなら、先に自分の傷を見せるのが当然だと思った。

そのように書いてきて後悔がない。
むしろ、書いてみた内容が、複数人で人と会った時のテーマとなり、それをテーブルの上の駒としてみんなで対話をしてみたら、対話を通じて精神面のケアを行うオープンダイアローグのようになった。

駒を説明するわたしが傷を負った当事者でも、その傷の一側面を共有する人同士で語り合うことでまずわたしがその場から遠く離れて客観的な視点を獲得する。
その場に参加する人たちもまた、小さな物語を共有し、まるで自分たちについて話している場を劇場の観客席から見ているかのように客観視する視点を得て、する/されるではない癒しを体感したことがあった。

小説や、音楽、映画、漫画、演劇、アニメーション、何らかのフィクションを求め、それを通じて自分の心が癒された経験がある人は、これを読んで共感する部分があるだろう。

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ケアは「自己表現欲求」とは対極にあると思われがちかもしれない。でも、献身的に与える姿勢を持つ者だけがやることではない。それは一方的な行為の提供ではなく、相手にも、隣にも、後ろ側からも呼応して作り上げる演劇のようなもので、

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わたしは、だから一人ではなく、デザイン、絵描き、編集、写真、印刷の世界で尊敬する知人たちとともに呼応しながら、関係性の中で今回の本を作りたいと思ったのだと、
大坂上の交差点にあるどこぞの会社のベンチの上で急に腹落ちした。ひとりで膝を叩いて、ばかみたいだったけど、とても満足した。

この本づくりが今、誰よりもわたしに必要なのだ。長く生き、傷つき、驚いて、喜んだ、さまざまなことを誰か個人にではなく、雪や水に身を預けるときのように素直なこころで紡ぎ伝える段階にきたのだ。

それが"トーチ"(たいまつ)となる。

暗いところで仄明るく一歩先を照らし、きっと自分自身だけでなく、もう少し広い社会で必要とされる本になるかもしれない。そのために、まずはわたしのために大切な表現をする。何かわからないけれど何かに傷ついてきた、これまでの治癒のための。


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