3ろβはツバサで天使の事

ミチはプログラマーだったが、やめた。世にいうところのブラック会社でボロ雑巾みたいに働かされた挙げ句、システム保守なんて無駄飯食いだなんて陰口を叩かれて頭にきて愚痴を漏らしたら、相手が悪かったようでそいつは上司にこれを報告と称して告げ口して、ますますミチへの風当たりはキツくなってゆき、トラブルが起こるごとにミチのせいにされたから、ミチはなかば追い立てられたシカのようにハンター達から逃げまどい、ついでとばかりの鬱病にまで罹って限界を迎えて辞職することにしたのだ。

ミチは、これを早口で、付き合って七年になる学生時代からの彼女に説明する。

こざっぱりした声が言った。

「じゃ、別れようか?」

「えっ!?」

オマエなにを聞いてたんだ?

思わず、質問しそうになるが、プログラマーだったころにはあんなに好ましく思えた彼女のアッサリした性格が、今は途方もなく残忍に感じられた。

「せっかく大手に就職したのに。あたしはまだ銀行でこきつかわれてるわけよ。向上心と堪え性がないやつ、イヤだわ」

「そんな、まてよ」

「待たない。それに今、うちの同僚みんなエリートだしね。まぁせいぜい第2の人生がんばって。じゃあね。ああ、無職だっけ? じゃ最後はおごってあげるわ」

伝票をアクリル筒から奪って、カツカツしたヒールの音を鳴らしながら、会社帰りのOLはさっそうと帰宅していった。

ぽつん。あ然と残される男は、虚しいことといったら言葉にしきれず、胃がキリキリして吐き気とめまいと動悸が同時多発した。

なんだろうこれ。悪夢か。ユラユラしてじぶんは人魚姫みたいに泡になって溶ける感じがする。溶けたい。溶解して消えたい。

ミチは、しばらくして、ヨロヨロした足どりで自宅アパートを探した。いつもは迷わないのに道に迷ってしまって帰宅は深夜をまわった。ミチは、布団に向かわず、トイレで吐いたあとにパソコンのスイッチを押した。猫背になって一人子泣き爺みたいにしてお地蔵さんのように体をちぢこめて椅子の上で膝を抱えた。

人差し指で、ポツ、ポツ、ポツ、前々から趣味で制作していたプログラムの残りを打つ。

朝が来た。ミチにとっては、憂鬱な霧につつまれた何の感慨もわかない朝日。部屋がじんわり白色に濁った。ポツポツ。人差し指は実行プロダクトを入力した。

『ハァーい。みっちょんだよぉー。みっちー、元気してるう? オシゴト、今日もガンバってえらいね! ミッチーは頑張り屋さんだもんね!』

パソコン画面のはじっこに、ドット打ちしたキャラクターがぴこぴこする。

ミチは吐き気がした。ミチはだが、やらねばならぬ。

気力をふりしぼって、プログラムがうごくことの確認作業を終えると、次は追加のドットとセリフまわりの変更だ。翌日になるころには、パソコンのなかの『彼女』は、現実のカノジョであった女性の面影をとっぱらわれていた。

『遅くまでお疲れ様です、ミチ。わたしは天使です。あなたは、もう休んでいいんですよ。あなたは充分にやりました。さぁ、少しばかり、ヴァカンスのお時間と生きましょう。大丈夫ですよ、楽しみましょう』

ドット打ちのミニキャラは、茶髪カールヘアから黒髪ロングになり、白いキャソックを着て頭に十字架の紋章がついた帽子をかぶる。背中には3枚の翼があって、3枚が、足踏みの代わりにピコピコする。

「…………なまえ」

ボロボロによれながら、ミチは、仕上げをしなくちゃという使命感に駆られる。今日からのヴァーチャルカノジョなんだから。なまえがいる。

でも、名前なんてつけたくなかった。急にバカらしくなってしまいそうで涙が漏れた。

悩んだ末に、ポツ、とコードに入力するそれは、ミチのなかの設定では異国の言葉だ。天使の言語だ。意味は、ツバサ。

パソコンのなかで、パソコンから出てこない天使は、嬉しそうに創造主に礼を言った。

『ありがとうございます。私は、3ろβ。あなたを励ますもの。ミチ、3ろβはいつでもあなたを見守っていますから……』

3枚ツバサをピコピコさせて、パソコンの天使はだらしなく泣く三十路を超えたおじさんを慰めた。ピコピコする感じが、可愛いじゃん、泣きながらミチはちょっと自分を褒めた。それから、寝た。泥のように。

翌日、さらに翌日、さらに、さらに、と半年ほどして、ピコピコする3枚翼が可愛いからミチはSNSに天使をアップした。

天使がバズり、キャラクターとして当たり、フリープログラマー・ミチとして新たな第2の人生をミチに授けるのは、それから数ヶ月後の話である。数ヶ月後だが、ミチは、天使を天使と思ったし、恩返しされることって本当にあるんだな、と、驚いた。

しばらくして鬱病も回復したという。


END.

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