映画『her/世界でひとつの彼女』は気持ち悪いのか

近未来。手紙の代筆ライターをしているセオドア。妻と別れできた「隙間」に人工知能OSサマンサを使い始める。サマンサはスーパー高性能なSiriみたいな存在。人間とコンピューターのあいだにわってはいる存在(インターフェイス)であり、人間がインターネットをはじめとするコンピューターサービスを享受するのを容易にする。それだけではなく、人間的なコミュニケーション力を持ち、ユーザーと「心の交流」もできる。ひょっとしたら人間以上かもしれない。なぜならサマンサはコンピューター上のすべてのデータを参照することができるので、ユーザーの精神から身体の状態、つまるところその人間のほとんどすべてを知ることができるからだ。

セオドアはサマンサに惹かれていく。もちろん人間と人工知能(それも声のみの存在)との恋愛は、マジョリティのものではなく、気味悪がられる。と言っても完全に「変態」というわけでもなく、理解を示してくれる人もいる。という程度には社会の中で人工知能の存在感(プレゼンス)はある。

データベースと計算力があるサマンサが人間と比較してゆいいつ不利な点は、生身の身体がないという点だ。セオドアとサマンサはヴァーチュアル・セックスをする(試みる)。さらには二人の関係に理解を示す女性が自分の体を「ボランティア」で提供することを申し出る(それがどのような結果になるかは、ここでは書かない。)さらに利点に思えた人間以上のデータベースと計算力は、やがてある「限界」をセオドアに突きつける。

「her 映画」でググると、検索候補に「気持ち悪い」と出てくることが、ずっと気になっていた。この映画は、やっぱりどこか気持ち悪い。この気持ち悪さはどこからくるのだろう? 一つはサマンサが、人工知能によってセオドアに最適化されている理想の相手だからだろう。人間同士のコミュニケーションには絶対に存在しない、「完全な理解」がここには存在している。ように思える。結局、それはユーザーの膨大な使用履歴からアルゴリズムによって類推されたもの、ある種の鏡像でしかないのだが。ナルシシズムというか、自己愛というか、自分の履歴から作り上げられた自分を「完全に理解」してくれる相手。そんな相手と恋愛をして楽しいのか? ということだ。

もう一つの気持ち悪さは、人間と非人間との恋愛を描いているところだろうか。SFには様々な非人間がでてくるが、今回は人工知能だ。人工知能との恋愛も数多く描かれるが、本作が特徴的なのは、ソフトウェア的な存在としての人工知能という点につきる。ふつうSFに出てくる恋愛対象としての人工知能は、人間的なボディ(ハードウェア)を与えられている。『エクス・マキナ』でも『イヴの時間』でもそうだ。で、非人間を人間とつい思ってしまう葛藤がテーマとなる。これはでも共感しやすい。あるかも、と思ってしまう。人間そっくりなロボット、というのはある話だし、実写映画であればその人間そっくりなロボットは人間の役者が演じるのであるから、観客は容易に人間とロボットを混同する。

ただ本作にはサマンサのボディは登場しない。最初から最後まで声のみなのだ。インターネット上のサービスである以上、どこかにあるサーバーのどこかにプログラムが格納されていることは確かであろう。でもそれは雲の上の存在(クラウド)であり、感情移入の対象にはなりえない。この恋愛対象の「対象」の不在が、気持ち悪さにつながっているのだと思う。

セオドアが手紙の代筆ライターというのは象徴的だ。セオドアとサマンサの関係、決して対面で身体同士が会わない関係は、ペンフレンドを連想させる。ペンフレンドだって、今は合えないだけで、いつか会える(可能性がゼロではない)。インターネットで出会った2人がやがて恋に落ちて、という話もよくあるが、これにしたって出会いはテキストだとしても、やがて実際に会うことになる。恋愛「対象」の身体=ボディが100%存在しない場合、それでも恋愛できるのだろうか? この恋、いや愛は、何かと似ていないだろうか? 

と、この映画、人間と人間以上の存在(ポストヒューマン)の恋愛こみの関係を描いた点でたいへん面白く、人工知能SF論として本書にも入れた。


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