SFについて考えることはエイリアンについて考えること

映画《エイリアン》シリーズの思い出

SF評論を書いていると「好きなSFは何ですか」と聞かれることがある。いろいろありすぎて即答できないあたりに自分の評論家としての未熟さがあるのかもしれないが、それはさておき、「好きなSF映画は何か」と聞かれたら『エイリアン』と答えている。シリーズものなので「どのエイリアンか?」と聞かれれば、さらに突っ込んだ話をしている。『ジョジョの奇妙な冒険』で第何部が好きなのか盛り上がれるように、《エイリアン》というシリーズ映画の第何作が好きかで盛り上がりたいとつねづね思っているが、たいてい『エイリアン』と『エイリアン2』で話が終わってしまうのが残念である。

SFは宇宙、宇宙船、エイリアン、ロボット、サイボーグ、人工知能などのSF的イメージ、SF的ガジェット(小道具)と強く結びついている。「SFとは何か?」という抽象的な問いに対して、具体的なイメージやガジェットで答えることも、十分に可能である。私にとってのSFはとりもなおさずエイリアンだった。それはイメージとしてのエイリアンであり、個別具体的な作品としての《エイリアン》シリーズであった。あのグロテスクで狂暴で、しかし目が離せない、最強(最凶?)の生き物としてのエイリアン。見たくないけれど、見入ってしまう。見たいのだが、画面にはほとんど映りこまない(特に第1作目は)。アンビバレントなヤツである。

子どものころ、地上波でやっていた『エイリアン2』をVHSビデオに録画して、何度も何度も見ていた。何度見ても好きなのは、宇宙海兵隊員がエイリアンの巣に入ってドンパチやるところで、臨場感を出すために隊員のヘルメットについている小型カメラが送ってくる映像が使われている。画質がとにかく粗い。銃声とパニックだけが伝わる演出。VHSを停止してみたものの、そもそもちゃんと映っていないいないので、停止したところでちゃんと見えるわけではない。

『エイリアン2』は『エイリアン』と打って変わって、エイリアンがわしゃわしゃでてくる。卵を産むクイーンも登場し、最後はリプリー操るパワーローダ―との一騎打ちだ。これは極力姿を見せないこと、あるいは宇宙船のメカニカルな内装に溶け込むようなフォルムで造形されたエイリアンが特徴的な『エイリアン』とは趣を異にする。『エイリアン』は宇宙船という人工環境の密室で、狂暴な生命体(自然?)が、人間を喰っていくというホラー/サスペンスだ。エイリアンの生態や造形もショッキングだが、とにかく怖い。「宇宙では誰にも悲鳴を聞かれない(In Space No One Can Hear You Scream)」がトレイラーの文句だ。

ハリウッドでは人気が出た作品には続編がでる。2作目と3作目がセットで作られ3部作になることも多い(『バック・トゥ・ザ・フューチャー』や『マトリックス』)。ただ、1作目よりも面白い続編というのはあまりない。ホラーがシリーズ化することで恐怖からコメディへと変質(劣化とは言いたくないな、進化ともいいにくいが)していくように、1作目の衝撃というのはおそらく「いまだかつてない映画」だから衝撃的なわけで2作目は「いまだかつてない」という1作目の要素ぬきに戦わなければならないからだろう。そりゃあ、辛い戦いだ。そんな辛い戦いだが、『エイリアン2』は『エイリアン』以上の作品ではないかと思っている。理由はジャンルを変えたから。ホラー/サスペンスからミリタリーアクションへ意匠替えしたことが、完全にうまくいっている。広くSFであることには変わりはないが、SF内でエイリアンへのアプローチを変えたのはジェイムズ・キャメロンの作戦だろう。

私が見た順番は『エイリアン2』みてから『エイリアン』だったと思う。で『エイリアン3』につながる。

『エイリアン3』は、ファンの中でもけっこう評価は低いと思う。囚人を収容する惑星でエイリアンを戦わなければならない、というのは密室宇宙船の『エイリアン』を思い出すし、そもそも刑務所であるから武器がないというのも、貨物船ノストロモ号の状況と似ている。『エイリアン3』は宗教性が意図的に高められ、囚人たちは中世の修道士よろしく禁欲生活をしている(いちおう、自主的に)。しかし欲望からの自主隔離はリプリーとエイリアンの漂着によりあっという間に崩される。コロナ禍の今見れば、エイリアンの寄生は「感染症」だし、自主隔離は「ステイホーム」だな。『エイリアン3』がすごいのは、リプリーの体内にクイーンを寄生させたことだ。どうやってなのかは永遠の謎。IMDb見ると「脚本の破綻がある」と書かれている。確かに制作の段階で、なんども脚本家がスイッチしたようだ。映画をよく見ても、クイーンが宿った経緯はわからない。が、これによって『エイリアン4』が生まれた。

『エイリアン4』は劇場へ見に行った記憶がある。1997年公開なのでたぶん高校生。1人で観に行ったのか、友達と行ったのか、どの映画館なのか思い出せないが、劇場で見た記憶はある。「今度のエイリアンは泳ぐらしい」というのが前評判で、ちゃんと泳いでいた。それ以上に衝撃的だったのか、リプリーがクローン再生され、エイリアンとのハイブリッドになっていたこと。もう人間vsエイリアンの殲滅戦争がテーマではなくなっているのだ。でも考えてみれば、《エイリアン》シリーズは、人間とエイリアン=非人間の戦いだけではなく、接触、もっといえば融合に執着してきた。エイリアンが人間に寄生し、体内で幼生を育てるのだから。

《エイリアン》は『エイリアン4』の次に、リドリー・スコットが監督した『プロメテウス』『コヴェナント』という前日譚が作られた。スコット、なかなかの高齢なので、前日譚が完結するかどうかはわからないし、これが本当に前日譚なのかも、ちょっと怪しいという説もある。何作つくっても『エイリアン』に回帰しないのではないか? 前日譚2作のキーワードはエンジニア(engineer)である。エイリアン種族を作ったとされる『エイリアン』にちらっと登場した(エイリアンとは別の)宇宙生命体。人間を作った(They engineered us.)したとも言われる彼ら。エンジニアは人間を作り、人間はアンドロイドを作り、そのアンドロイドが試行錯誤して究極の生命体(兵器)としてのエイリアンを作る。作る/作られる関係にフォーカスしている。

と、つらつらと《エイリアン》の思い出話をしてきたが、エイリアンとの遭遇が人間(ヒューマン)、さらには人間以後の存在=ポストヒューマンにつながるのではないか、という論を書いた。本がもう少しで発売なので、興味がある人はご覧ください。


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