2022年9月の書いたものまとめ

Netflixに加入したぞ。前から気になっていた韓国ドラマ『地獄が呼んでいる』をサクっと全部みた。これは確かに面白い。その他、ぽつぽつとNetflix映画を見ているが、アマプラとあいまって、見るものを選ぶのに時間がかかるというサブスクの罠に陥っているのかもしれない。
さいきんの文学がSF的な発想や意匠を効果的に使う、というのはよく指摘されている(先日、毎日新聞の文芸時評でも田中和生が言っていた)。いつからが「さいきん」なのかも議論はあるが、リアルとバーチュアルの境界がゆらぎ、リアルがバーチュアル化し、バーチュアルがリアル化したときに、リアリズムのリアルとは何か問われるのだろう。というのは、あまりにも図式的な気がする。わかりやすい構図なのだが、そんな構図でよいのだろうか? 「世界/現実がSF化している」「SFこそがリアリズムだ」というとき、リアルの程度(リアリティ?)に尺度が想定されていないか? 現実のSF性に早く気が付いた(SF作家)、遅く気が付いた(純文学作家?)というリアリティへの感度の差なのか? もちろん、そんなことはないだろう。だとしたら、どう文学/SFの関係を語っていけばよいのか? と、なんとなくメモ書き程度に書いてみた。このメモはこれから論に発展するはず。
人権は意識や感覚で、定期的にメンテナンスをしていかないと、すぐに摩耗していく。という話を聞いたのだが、これは本当にそうだ。自分のふるまいは自分がデフォルトなので、ほうっておくと自分のふるまいになってしまい、自分のふるまいを修正していくことは難しい。

①「不可能なもの」の映画--『NOEP』覚え書

『NOPE』は不可能なものの映画である。NOPE=Noである。impossibleと置き換えても良い。では何が不可能なのか? 物語的(プロット的)には、Gジャンと名付けられた得体の知れない超常的な存在を撮影することが、不可能なミッションだ。因縁あるものたちが集まり計画し、不可能なプロジェクトに挑むクライマックスは、可能と不可能の境界ギリギリを攻める挑戦であり、見ていて楽しい。

➁どっちの世界が「狂って」いるのか?――ミン・ジヒョン『僕の狂ったフェミ彼女』(イーストプレス)書評

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「僕」には狂ったように見える彼女の言動は、しかしちゃんと筋が通っている。彼女は理不尽に怒り狂っているわけではなく、彼女たちが直面する社会の理不尽さを糾弾している。同じ社会に生きる2つの別世界があって、果たしてどっちの世界が狂っているのかと、彼女は、そしてこの物語は、私たちに問いかける。

➂どこでどうやって鎧を脱ごうか――清田隆之『自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと』(扶桑社)書評

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個人情報がわからないように話を再構成し、具体的な一般男性の話は、架空の一般男性の話になっている、と筆者も注意している。これは社会学やルポのインタビューでもとられる手法で、本当の話を聞きたいのであれば話し手の「心理的安心感」を確保することが、何よりも大事だから。しかしこの作業によって、「一般男性」の本質が、構造的に提示されるようになったのではないか? と私は思う。どこにもいない男性の話を読んで、どこにでもいそうな男性の話と受け取ったり、「ここはまさに自分の気持ちを代弁しているのでは?」と感情移入したり、実際にできているのだから。

➃これもまた「未達の感覚」なのだろうか…?--清田隆之、澁谷知美『どうして男はそうなんだろうか会議 いろいろ語り合って見えてきた「これからの男」のこと』(筑摩書房)書評

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男は自分がしたこと(しないこと)を免責する言い訳が社会にあふれている。そのとおり。自分の加害性、暴力性、権力性を意識する。そのとおり。しかし、しんどい。しんどいのに、やらなきゃいけないのか? と、やらなくてよい「言い訳」を探す。探すとすぐ見つかる。で、スタート地点に戻る。半永久的なグルグル運動。
たぶん、でかい主語、抽象的な概念で考えすぎなのだと思う。私は単なる一人の人間で、世界や社会を変えることはできない。私が日々、接している人の数も限られている。日々接している人たちとの個別具体的な関係を点検する。点検して、気になることがあれば直す。たぶんこれをやっていくのが良いのだろう(これぐらいしかできないのだろう)。

⑤競争vsケア――おおたとしまさ『ルポ 東大女子』(幻冬舎新書)書評

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筆者は、「東大女子」は、東大に競争が女子にケアがジェンダー規範として埋め込まれ、競争vsケアという現代社会において相反するとされるものが同居しているので不協和音が生じていると言う。大学までの教育、大学を出てからの社会で、男性並みに競争をしながら、家庭という私的領域では結婚/出産/子育てを担うことを前提とされる。男性は結婚/出産/子育てがキャリアとの天秤にかかることは原則としてないが、女性は、たとえ東大という学歴社会の頂点にたどり着いた人でさえ、仕事か家庭かを選ばされる。女性がケアを担ってきた(担わされてきた)のは、「男性並みに学歴がない」「男性並みに稼げない」からと言われてもきたが(もちろんこの主張には根拠がないが)、現実に男性以上に学歴や収入を得られる女性がいるときに、それでも彼女たちに当然のようにケアの領域を割り当てようとするのは、ジェンダー規範(もっといえば差別)以外のなんであろうか。

➅責任の無化をお引き受けします!--吉村萬壱『CF』(徳間書店)書評

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そもそも、どうやって責任を無化するのだろう? 民間企業たるCFは、それっぽい言葉を使いながら責任の無化過程を説明する。いわく「ペルト加工」に「クレーメル処理」。何が加工され、どう処理されているのか明らかにされない。単なる企業秘密なのか、それとも元々何もない「裸の王様」的な技術なのか。それに、責任を無化するとはどのような行為を指しているのか。作中でも度々指摘されているが、責任とは物理的なモノではない。加工しようにも処理しようにも、対象となるブツがない。怪しげな液体をどれほどかき混ぜたところで、そこに「責任」が溶け込むことなんて、あり得ない。あり得ないのだが、CFに関係する人たちは、加害者のみならず被害者すらも責任から解放される。いったい、何が起こっているのか?

➆男性(性)を考えるブックリスト

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