神話国家日本の作り方--辻田真佐憲『「戦前」の正体』(講談社現代新書)評

「戦前(の日本)」と聞いて何を思い浮かべるだろうか。私は太平洋戦争末期の暗い苦しい時代を思い浮かべてしまう。国外では「玉砕」、国内では空襲に本土決戦の準備…。他方、戦前を称揚する--とまではいかなくてもノスタルジー的に参照する--人は、別の時分を切り取るに違いない。思い出される戦前が人それぞれなのは、ひとつは戦前が十分に長いからだ。明治維新から太平洋戦争の敗戦まで77年。77年あれば、そりゃあいろいろ、である。戦前が人それぞれであるもう一つの理由は、私たちの戦前への解像度が低いからだ。自分の今の興味関心の延長で戦前を見ようとする。例えば、安倍政権の強引な政治手法に反発を抱く人なら、戦前(太平洋戦争中)の全体主義国家像を連想する。もっとも、辻田は指摘しているが、戦前の首相権限は今の首相の権限よりも弱く、軍部をグリップできていなかったようだが。あるいは、戦後民主主義的な道徳に反対する人なら、教育勅語の「道徳」(カッコ付)を持ち出すだろう。いずれも自分の興味関心の先にエクスキューズとして戦前の一部を切り取って配置するので、牽強付会のそしりは免れない。

本書は神話に注目することで、私たちの戦前の解像度をあげる。辻田ははっきりと「大日本帝国は神話国家」だという。「本書は、神話と国威発揚との関係を通じて、戦前の正体に迫りたいと考えている」。神話とは直接的には『日本書紀』と『古事記』なのだが、明治維新後の日本政府(の役人)は、記紀を適宜、つぎはぎ(マッシュアップ?)して、西洋列強に伍する帝国建設にふさわしい神話物語を作っていった。現在では「建国記念の日」となっている2月11日は、「神武天皇が即位した日」にちなんでいるが、そもそも神武天皇が建国の祖として持ち出されたのは、明治維新前後になってだ。中世までをキャンセルし、新しい天皇による統治を始めるにあたり、史料がほとんど残されていない「原点」たる神武天皇を召喚し、ある意味で、好き勝手に「これこそが原点回帰だ!」と提示することができた。これを筆者は「原点回帰という罠」と呼ぶ。事実、明治天皇が洋服を着るように呼びかけるときに神武天皇が言及されたり、神武天皇の像が作られるときに明治天皇の面影が意識されたりしている。原点であるから根拠になるが、原点であるがゆえに根拠がないというパラドックスだ。

「万世一系」の天皇は日本を特別な国にする(少なくとも国民=臣民にとって)。天皇の祖先は当時の臣民を支配し、今の天皇は今の臣民を支配する。天皇が途切れることなく先祖へ繋がり、臣民もまた臣民の先祖へつながっていく。臣民の天皇への忠誠(忠)と、天皇の連続性/臣民の連続性(孝)からなる「忠孝の四角形」が教育勅語の根本原理であると筆者は言う。他国に見られる革命による王国・帝国(血族)の切断がないことを、明治政府は日本の特徴として提示し、様々な物語(神話、勅語、唱歌・軍歌、プロパガンダ)を通じて、国民に「万世一系」世界観を浸透させていった。ちなみに、現代の教育勅語推奨論者は、この忠孝の四角形を理解していない(意図的に?)ので、教育勅語を「本当に」推奨しているのか、というと疑わしい。

興味深いのは「ネタがベタになるという罠」として筆者が指摘したことだ。太平洋戦争末期、本土決戦が近づくにつれて昭和天皇が三種の神器をやたら心配するようになる。アメリカ軍が三種の神器を確保したら、自分の正統性が揺らぐのではないか、と。明治維新で、神話を参照しつつ大日本帝国の世界観が作られ天皇が担がれたとき、外から見れば天皇は神だったが、内から見れば天皇は統治のシステムの一部であった。であったはずだが、内からも、例えば後付けで用意された三種の神器という神話「ネタ」を、自らの統治の根拠である「ベタ」として信じるようになっていく。玉音放送でも、三種の神器について言及するべきではという意見があったが、言及してしまうと逆にその価値をアメリカ軍に知らしめることになるので、言及するべきではないと結論づけられた。皆、三種の神器の価値を信じていたのだ。

と、筆者は「特別な国という罠」「先祖より代々という罠」「世界最古という罠」という観点からも戦前の神話物語を批判的に検討している。

さて、ここからは私が個人的に気になった点を述べる。
戦前と戦後で天皇の政治的扱いは変わったものの、変わっていないものものもある。その最たるものが「男系男子」に限定される皇位継承である。これ、ジョセフ・ヘンリック『WEIRD(上)』を読んだ限りでは、人類の歴史において広く・長く行われてきた親族ベース制度を、近代国家風にアレンジしたものではないか、と思うのだ。『WEIRD』で示される各種データに日本もたまに出ていて、アメリカほど個人主義ではないが、かといって完全に親族ベースでもない、中間地帯に位置している。ひとつは「イトコ婚」が法的に認められているからだろう。しかし、私はそこに(日本特異論であることを知りながらも)天皇制も関係しているのではないか、と思いたくなってしまう。制度的に親族ベースが解体されていても、アメリカほどに個人主義的に日本人が振る舞わないのは、国民の象徴として男系男子の「氏族」を戴いているからではないか?(あくまで個人の仮説)

次に気になったのは、現代の教育勅語推奨論者は、いったいなにを推奨しているのか、ということ。辻田も指摘している通り、現代の教育勅語推奨論者は、教育勅語を正しく読めていない(間違った解釈を参照している)。あるいは、読めているがそのエッセンス(忠孝の四角形)を無視している。忠孝の四角形を現代日本で繰り返すことはできないと思っているので、あえて無視しているのだろうか。この(無意識的)誤読に、人権と個人主義の現代国家と、親族ベースの人間集団の齟齬を読み込みたくなってしまう。のは、私が文芸系の評論家だからだろう。

最後に。大日本帝国の神話は、それを構築した人々(政府エリート)はどこまで理解しながらやったかわからないが、近代史上の「偉業」ではないかと思えるくらいに、機能した。むろん抑圧・支配込みで、である。(手放しで礼賛できる近代国家などひとつもない。だから偉業にカッコをつけた。)辻田も言う通り、プロパガンダは上からの押し付けだけでは成功しない。「楽しいプロパガンダ」である必要がある。少なくとも、当時の帝国臣民にこの神話は「刺さった」。そうは言えまいか。なぜ神話が国民=臣民に「刺さった」のかを考えることなしに、戦前を語るのは不十分ではないか。という意味で、本書は神話国家日本を知るために、たいへん良い本である。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?