歌は物語を伝える――鈴木晴香『夜にあやまってくれ』(書肆侃侃房)評

(2019年3月14日シミルボン投稿 再録)

先日、ミュージシャン・俳優の某有名芸能人が薬物所持の疑いで逮捕された。

彼はラジオ番組でレギュラーを持っているのだが、逮捕翌日のその番組では、相方の女性パーソナリティーが、彼の事件について、彼との仕事について、彼のことについて思いを話していた。続けて紹介したのが、吉田拓郎の「全部だきしめて」であった。この曲は、彼女と番組スタッフから、留置所の中にいてこの番組を聴くことはできないだろう彼へのメッセージになった。

ラジオがいいなと思う瞬間はいくつもある。トークのあいまあいまに挿入される曲(歌)が、新しい物語を与えられるところも、その一つだ。

今回紹介するのは、歌は歌でも短歌である。ふだんから熱心に短歌を読むわけではないのだが、たまたま手に取った本歌集は、実にステキであった。

こんな歌がある。

 いつ開けたペットボトルかわからないペットボトルが何本かある

これだけを読むと「?」かもしれない。日常のひとコマを切り取り、「あるある」という共感を生む。そういう歌だと感じられる。

歌は、トークとトークのあいだで物語を獲得すると先に述べた。ラジオとは異なり、歌集にトークはない。歌がたくさん並んでいるだけだ。では読者たる自分が、リミックスよろしくいくつかの歌を抜き出して、続けてみよう。

 自転車の後ろに乗ってこの街の右側だけを知っていた夏

恋人との二人乗りの自転車。いつも右側だけをみる。でも、左側を見ることはないのだろうか? 左側を見ている人は、自分ではないのではないか? 誰か、別に、この自転車に乗っているのでは?

 きっと君の本当の彼女もよく動くその喉仏に触れるのでしょう

「本当の彼女」がいるということは、自分は「本当の彼女」ではない、ということ。ひょっとして、右側だけを知っている自分と、左側も知っている「本当の彼女」がいるのではないか?

もう一度ふたりが出会う世界では君から先に私を見つけて
もう少し早く出会っているような世界はどこにもない世界より

「もう一度」「もう少し」と、ありえる(た)かもしれない可能性、ありえる(た)かもしれない世界を暗示する。ふたり出会った世界の一回性を、複数にぼやかしてしまう。

この地区は電波時計が狂うから十分襲い世界を生きる
トンネルを通過するたび現れる右の左の並行世界

可能な世界は平行な世界。パラレルワールドだ。

気がつけばもと居た場所に立っていて私は何を失くしたのだろう

自分が、異世界に迷い込んでしまったように。自分が、自分ではないかのように。

可能世界(並行世界)へのまなざしを詠んだ歌をいくつも抜き出した後に、最初に紹介した歌に戻ってみよう。

いつ開けたペットボトルかわからないペットボトルが何本かある

どうだろうか。最初とは異なる印象を抱かないだろうか?

歌は物語を伝えるのである。物語は一つではなく、歌の並べ方によって、つまり読者の受け取り方によって、いくつにもいくつにも、「並行世界」のように分裂し、可能世界へと広がっていく。

そんな楽しみ方ができた一冊だった。短歌をふだん読まない人にも、ぜひ読んでもらいたい。自分の好きな物語を、楽しめるから。

追記(2024年3月7日)

むかし、小学校で俳句や短歌、詩にはじめて触れた時に「どうしてもっと書かないのだろう?」と不思議に思った。言葉を重ねれば重ねるほど「真実」(大切なもの)に近づくのではないか? と。今では、おもに自分の書いたものを見て「どうしてもっと減らせないのだろう」と自問する…。だらだらと書き連ねることはできる。しかし、書けば書くほど「大切なもの」に近づくところか遠ざかっていく…気がしてならない。必要だから書いているのだが、本当に必要なのだろうか? 
あと、これはどなたかご存じならご教授いただけないかと思っているのだが、現代詩、現代短歌のアンソロジーで良いものがあれば…! できれば文庫。ポケットに名言を!


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