《マトリックス》ってなんだったんだよ

映画『マトリックス』が1999年。ほとんど世紀末。三部作の2作目『マトリックス リローデッド』が2003年、3作目『マトリックス レボリューションズ』も2003年。私が高校~大学のころの映画。大学ではSF研に入っていたのでそれなりに話題になったが、当時は「流行ってるな~ふ~ん」程度で、実はそこまで真剣に見ていなかった。『マトリックス』はそれでもまだ見たほうだが、『リローデッド』と『レボリューションズ』になると見たけど、ちゃんと見ていない。見たが、よくわからないまんまだった。

これは個人的なことで、私のいたSF研のメンバーにいえることかどうかは自信がないが、あまりにも王道なもの、むっちゃ流行っているもの、市井の人(?)が絶賛しているものとは、ひとまず距離を取ろうとしてしまうのだ。今はそんなことはない。面白いものは面白いし、流行っているものには流行っている理由がある。で、SF研にいた当時、「みんなでマトリックスを見に行こう」とか「マトリックスで読書会をやろう」となった記憶もないので、自分は乗れていなかったし、みんなもそうだったのかもしれない。

『マトリックス』はそれでもやっぱり衝撃的である。人間vs人工知能+ロボットの戦い。タンパク質の塊でしかない人間はあっという間に劣勢になり、敵ロボットの動力源を絶つために太陽光を遮断する爆弾を仕掛けたが、敵ロボットは人間を捕まえて体温を電池に利用。捕まえられた人間は、頭に電極を差し込まれ、覚めない夢=マトリックスの世界で死ぬまで生きる。このディストピア・ビジョンは、なかなか素敵だ。人間電池っていう発想は特に。

マトリックスの世界で凄腕のハッカーとして活躍していたアンダーソンは、モーフィアの導きにより救世主ネオとして覚醒。仮想現実のマトリックス世界から、現実世界に戻ってくる。あとは、マトリックス世界と現実世界をいったりきたりしながら、敵(マシーン)と戦っていく。

コンピューターのプログラムは単なる文字、もっといえば0と1のデジタル信号であるが、それを身体表現として、カンフー+ワイヤーアクション、さらにはバレットタイムという特殊な撮影方法を駆使し、観たことのない映像を作り出していた。『マトリックス』といえば、「マトリックス避け」と勝手に(私たちの周りでは)呼んでいた、あの体をのけぞるヤツがすぐに思い浮かぶ。それくらい『マトリックス』は身体表現の映画だった。

なぜ仮想現実SFで、身体表現が重要な意味を持つのか? ヴァーチュアル・リアリティの世界でカンフーバトルやる必要なんてないんじゃないのか? これは当時の私がイマイチ乗れなかった理由でもある。また、「マトリックスはマトリックスから目覚めなければ面白い」という感想も聞いた。確かに、仮想現実というものでなくても、夢と現実を往来する物語というのは、それはそれでよくある話だ。作りこまれた世界からどこまでも出られない、世界の内側と外側をギリギリ攻める、という話でもよかったかもしれない(『トゥルーマン・ショー』か?)。この2つの疑問は、《マトリックス》から20年後、改めて三部作を見直したら、自分なりに解決できた。

仮想現実空間で繰り広げられるカンフー。幸せな夢から目覚めなければならない理由。この2つについて、SF史と接続した論を書いた。のが入っているのがこの本です。



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