見えないものへの不安と透明化への欲望--日本SF作家クラブ編『ポストコロナのSF』(早川書房)評

(2021年7月13日シミルボン掲載の再録)

いまやすっかり古くなった感もある言葉「新しい生活様式」。

マスクの常時着用、他人との身体接触をさける社会的距離=ソーシャルディスタンス、いわゆる三密の回避、オンライン/リモート化。1年でここまで変わるかというほどに、人々の暮らしと社会の様相は変化した。「コロナが落ち着いたらさ」と枕詞に会話しているとき、「新しい生活様式」はテンポラル(一時的)なものとして了解されているが、ふと不安に駆られることはないだろうか。この生活様式は本当に一時的なものなのだろうか? これを機会に起こった変化は不可逆的なものではないのか? 

本書はSF作家19人がコロナ禍以降=ポストコロナの人・社会・時代・世界を描いた短編集。小松左京の『復活の日』や小川一水の『天冥の標』(特に2巻)などパンデミックをテーマにしたSF作品は昔もいまもある。いわばパンデミックに「免疫」のある作家たちが紡ぐ物語は、「新しい生活様式」がすっかり普通となった社会の断片だ。

伊野隆之「オネストマスク」はマスクの常時着用が求められる社会で、顔の神経を読み取り「本当の表情」を表示するマスクが登場する。マスクの着用により相手の表情が読めずコミュニケーションに支障をきたすという懸念は、確かにある。テクノロジーは人間の透明化の欲望にねざす。原因と結果を一直線に結ぶ因果関係を記述する客観的なアルゴリズムは、バベルの塔が夢想された昔から、人間の夢だったのかもしれない。いかなる歪みもない透明な記号。たとえそんなもんは原理的に存在しえなくても、実際に作ろうとする。「オネストマスク」はそんな透明化への欲望を執拗に/ブラックユーモア的に描く。

しかし考えてみれば、この透明化への欲望は、見えないものへの不安を反転させたものだ。見えないもの=ウィルスから身を守るために、私たちはマスクをつけるし、菅浩江「砂場」に描かれる「宇宙人」と侮蔑される感染防止フィルムを全身にまとったカバードたちもそうだ。見えないものへの恐怖から、体を何かで覆い、覆いながらもそれを限りなく透明に近づけようとする。正反対の方向へと向かう衝動が、互いにぶつかり合い・引っ張り合い緊張し、物語を生み出すエネルギーとなっている。

19作のうちいくつもオススメはあるのだが、「オネストマスク」と「砂場」に次ぐのは柴田勝家の「オンライン福男」。ぜひ。

追記(2024年3月28日)

コロナ5類引き下げは、(他国の状況をみながら、相対的に遅い判断だろうが)2023年の5月に実施された。それ以前は毎日のように「本日の新規陽性者数」がニュース速報で流れていたが、その光景は懐かしさすら覚える。むろん2類から5類になったからといって、ウィルスの化学的性質が変化したわけではないが、かくも私たちの認識(と社会)に変化があるものなのか、ソシュール的な「言語の恣意性」を思い浮かべる。

2019年12月(2020年2月28日、うるう日から全国一斉休校は始まった)から2023年の5月と便宜的に区切ってみて、この間、話題になり促進されたオンライン化/リモート化の可能性を冷静に評価できるようになったのではないか、と思う。導入当初の評価は、いま思えば過大であっただろう。「これからは〇〇がなくなる」の〇〇には学校(大学)や満員電車が入るが、思った以上になくならなかった。むしろ気になるのは、オンライン化/リモート化するためにそもそもデジタル化しなければならず、デジタル化されたことで、いままで気にしなかったこと(気にしなくてよかったこと)が数値として可視化されてしまったことだ。与那覇潤的に言えば『過剰可視化社会』であろう。数値化されると、比べるためではなくても、比べてしまうのだ。人間の性(サガ)である。「それ、比べる必要ある?」というものすら、オンライン化/リモート化の果てに、比べられていた。意図せずして競争に放り込まれた人々は、疲弊した。…と私は思っている。
オンライン化/リモート化の問題は、作り込めてしまうことにある。わからないもの、あいまいなものをそのままに宙づりにしておくのも大事、ではないか。


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