エイリアン映画『プレデター』の人間性

前説&販促

この記事は出たばかりの自著『ポストヒューマン宣言』の内容紹介やこぼれ話的なものを拾っていきます。

いまなら「SF評論を書いています」というと、あるいは大学生の時なら「SF研究会に入っています」というと、「UFO呼ぶんですか?」といわれることがあります。そういった本人はさすがに冗談としていっていると思いますが、それくらいSF=UFOの結びつきは強いのではないでしょうか。もちろんUFOに乗っているのはエイリアンであることが多いので、 SF=エイリアンといっても過言ではないでしょう。

で、そうなると「どんなエイリアン好きなんすか?」トークに進みます。(進まないかも。)ビジュアルイメージも大事なので、「好きなエイリアン映画とその見どころ」を話すと、SF好きとしての一定の義務は果たした感が得られます。(なんだこの前振り)

私が一番好きなエイリアン映画はリドリー・スコットが始めた《エイリアン》のシリーズで、どれくらい好きかといえば『ポストヒューマン宣言』の第一章がまるまる《エイリアン》論になっているくらい好きです。そのいきさつはこの記事にも書きました。

で、リドリー・スコットとギーガーが創造したエイリアンは今や強力なキャラクターにもなっていて、結構前ですが日本の進研ゼミのテレビCMにも出演というか登場していました。と書きながら自分でもたいそう不安になったので(あのエイリアンが通信教育教材のCMに出るか?)ググってみたら、ちゃんと発見できました。1995年なので四半世紀まえですね。どんな映像が気になるひとは「エイリアン 進研ゼミ CM」でググってみましょう。

このエイリアンと同程度にキャラクターとして成立しているのがジョン・マクティアナン監督『プレデター』(1987年)ではないでしょうか。アーノルド・シュワルツェネッガーが中米ジャングルで、「人間狩り」に興じる凶暴なエイリアンと、死闘を繰り広げる本作。舞台をロサンジェルスに移した『プレデター2』や『プレデターズ』『ザ・プレデター』と続きます。さらにはプレデターがスコット&ギーガーのエイリアンと戦う『エイリアンVSプレデター』(1と2がある)まで出ます。SF映画に登場する2大エイリアン、戦わせたら「どっちが強い!?」という人気学習漫画的な発想で作られた映画で、発想はもうほんと最高です。

『プレデター』のあらすじ&特徴

スコット&ギーガーのエイリアンは『ポストヒューマン宣言』で十分に論じたので、今回は『プレデター』について考えていきます。

『プレデター』は、シュワルツェネッガー率いる少数精鋭の部隊がジャングルに到着するシーンから始まります。ダッチ(シュワルツェネッガー演じる少佐)に昔の仲間・今はCIAのディロンが、任務の説明をし、自分も一緒にいくといいます。任務内容は、閣僚を乗せたヘリが行方不明になったので救出するのだといわれたのですが、ふたをあけてみたらゲリラ基地への攻撃・情報収集でした。ディロンにだまされたと怒りを覚えながら、撤退していくチーム。そこへ正体不明の敵が襲いかかります。それがプレデターです。

プレデターは光学迷彩を身にまとい、カメレオンのようにジャングルの景色に同化します。さらに人類がもっていない高性能のレーザー(?)兵器を使い、人間を襲います。目的は「狩り」。殺した人間の死体を吊るし、とりだした頭蓋骨は「戦利品」にします。プレデターpredatorとは直訳すると「捕食動物」のことですが、どちらかというとhunterにちかいかもしれません。

相手の姿が見えないこと、地上ではなくジャングルの木の上から攻撃を仕掛けてくると、さらにどうやら相手の視覚は人間の視覚と異なることがじょじょにわかります。プレデターはサーモグラフィーカメラで索敵するのです。温度が高いところは赤く、低いところは青く表示されるカメラで、最近でいえば、空港やら建物やらの入り口に設置され「熱が高い人」がいないか調べるのにも使われているあれです。映画『プレデター』の特徴は、エイリアンのヴィジョン(視覚)をサーモグラフィーによって表現したことにあります。

そもそも映画は「見る」メディアです。なにを当たり前のことを、と思うかもしれません。もう少し丁寧にいうと「のぞき見る」メディアです。そうすると今度は「のぞきこんではいない!」と反論があるかもしれません。例えば隣の家の様子がカーテンの開いた窓から見えるというのと、映画を見るということは違うように思えます。ただ、この比喩はそれなりに有効で、映画には画面(スクリーン)の枠があり、その枠は「家の窓」と類比的です。私たちは映画のスクリーンを見ていますが、スクリーンはまるで「家の窓」のようにその家に住む人たちの様子を、私たちに伝えるのです。

家の人たちとは誰でしょうか? 映画に出てくる登場人物のことです。私たちはスクリーンという窓を通じて、他人の生活の一部を「のぞき見」しているのです。これが映画は「見る」メディアだと私がいった理由です。

この「見る」メディアとしての映画の性質がいかんなく発揮されているのが『プレデター』です。私たち観客は、ジャングルで任務につくダッチたちをのぞき見た後、プレデターの視覚(サーモグラフィー)でものぞき見ます。通常のカメラからサーモグラフィーにシームレスに接続されることで、私たちはプレデターに想像的な同一化をすることができます。また同時に、映画が「のぞき見る」メディアであることを再確認できます。

だいたい110分の映画なのですが、迷彩状態のプレデターが登場したのは開始約40分後、迷彩をとき、いかにもなエイリアンの姿を見せたのが約50分後です。プレデターの姿を直接に見せず、しかしサーモグラフィーカメラの視点で登場人物たちを「のぞき見る」ことで、観客はプレデターの存在を経験することができるのです。

エイリアン映画として見ると

スコットのエイリアンとプレデターの描かれ方には共通点と相違点があります。共通点は、とにかく画面に登場しないことです。またエイリアンは宇宙船内の内装にとけこみ、プレデターは光学迷彩を駆使することでジャングルに一体化します。相違点は、視点の共有をする・しないです。エイリアンは基本的にエイリアン視点の映像をはさみません(例外は『エイリアン3』です)。それに対してプレデターは物語の早い段階からサーモグラフィーカメラ視点をはさみ、人間ではない「何者か」がダッチたちを「のぞき見」していると観客に伝えます。

実は、プレデターの視点の共有が、のちに『エイリアンVSプレデター』という映画で、プレデターを(どちらかといえば)人間側として、エイリアンに対峙するものに位置づけることにつながったと私は考えます。赤外線(熱)を使って獲物を狩るプレデターは確かに人間と異なる存在ですが、スコットのエイリアンほどの「異質さ(エイリアンネス)」はもっていない。いざとなれば理解・共闘すらできてしまう。そんなプレデターの「人間性」は、『プレデター2』に描かれます。いわば宇宙の狩人たるプレデターは「最強の生物」を探し、見つけては狩り=勝負をする。戦闘民族サイヤ人みたいなものなのです。相手が強ければ強いほどよい。究極に強い相手には尊敬(尊重)すらします。

プレデターというネーミングはミスリーディングかもしれない、と先に指摘しました。プレデターは狩った生物を食べるわけではないのです。食べるわけではない生物を狩る、というのはまさに人間の狩りのようであり、人間で狩りをする人はpredatorとは呼ばずhunterと呼ぶので、本来的にはこの映画はHunterとした方が良いのかもしれません。が、それだとエイリアン映画だともわからなくなるのでこのタイトルになったのでしょう(かね…)。

エイリアンが登場するSF映画を見るときのひとつのポイントに「エイリアンの視点が導入されているか」があります。人間にとって本当に異質な存在であるエイリアンであれば、その視点はとても人間と共有できるものではありません(表象不可能性)。しかし、エイリアンの視点をはさむことで観客はエイリアンの世界を想像することができます(想像可能性)。表象不可能と想像可能のあいだにあるのがエイリアンです。

『ポストヒューマン宣言』では〈ポストヒューマンのパラドックス〉として表象不可能と想像可能が不可分であるようすを論じました。


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