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聖徳太子が消され、道教が消され、次はオレか? by 空海

聖徳太子が消され、道教が消され、次はオレか? by 空海

空海は留学費用だけではなく
人生丸ごと「あしながおじさん」としての
秦氏の支援を受けていた。

秦氏や阿刀氏からも
超能力を使いすぎると、
権力者からは「畏れられ」
冤罪を着せられて「始末」された
人々のことは十分知っていたはずです。

秦氏の弥勒信仰はやがて、
秦氏が本拠地とした山背(山城)太秦に
秦河勝ハタノカワカツが建てた
蜂岡寺(後の広隆寺)の
本尊弥勒半跏思惟像や、

聖徳太子の伝建立の七寺
の本尊弥勒半跏思惟像や、

平城京の官大寺に流行した弥勒信仰は
モチロン秦氏を通じて
空海の弥勒信仰にも影響を及ぼしています。



高野山で未来永劫「生き続けて」監視するからね!

ショッキングな前例として、
秦氏が豊前の地に展開した宇佐八幡の
「密教呪術」事件として
神護景雲3年(769)に起きた

「道鏡の偽の神託」事件でした。

道鏡は大和の葛城山に篭り、
雑密の宿曜法に習熟したという。

※道鏡(文武天皇4年(700年)?- 
宝亀3年4月7日(772年5月13日以前)は、
奈良時代の僧侶。俗姓は弓削氏(弓削連)で、
弓削櫛麻呂の子とする系図がある。
俗姓から、弓削 道鏡とも呼ばれる。

葛城山は役行者以後葛城修験の道場となるが、
役行者以前から豊前の英彦山の山岳修行と
同系の山中篭行が行われていた。

道教は山中篭行を行うなかで、
すでに日本に伝えられていた雑密系の
修法を身につけたと思われる。

当時としては新しい雑密呪術を駆使して
度々霊験を顕わしたため、

天皇の病気平癒を担うシャーマンの役を
与えられたのである。

道教は女帝孝謙上皇(重祚して称徳天皇)
の看病禅師として宮中に出仕し

雑密呪術を以て上皇の病気を治し
妖僧とまでいわれた。

上皇の信頼を得た彼は、
「藤原仲麻呂の乱」を経て、
復位した称徳天皇の側近となり、

天平神護元年には僧侶でありながら
太政大臣になったばかりか、
翌年法王の座に上りつめ、
朝廷の実権をにぎった。

神護景雲3年(769)道鏡とともに
出世の道を急速に進んだ実弟で、
大宰帥(大宰府の長官)大納言
弓削浄人(ゆげのきよひと)と、
大宰主神(大宰府の神祇長官)だった
中臣習宜阿曽麻呂(なかとみのすげのあそまろ)が
道鏡を皇位につけることをもくろみ、

道鏡を皇位につけることが
神意にかなう旨の宇佐八幡の神託を
朝廷に奏上した。

宇佐八幡は早速、称徳天皇に対し
側近の女官であった和気広虫
(わけのひろむし、出家して法均)を
派遣するよう求めたが、

からだが弱かったため代りに
弟の和気清麻呂が宇佐八幡に下向した。

ところが、大神の禰宜・
辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)への
託宣で、道鏡を皇位につける神託は
偽りだということがわかり、

清麻呂は帰ってそれを称徳に報告した。

すると、

道鏡を皇位に就けたかった称徳は怒り、
清麻呂を改名までさせて
大隈国へ配流してしまった。

この処罰後の改名がスゴイ!

穢麻呂 キタナマロ
汚くて穢れているという名前に
強制的に改名されたんですね。

これは名前がどれほど重要で
その人の「命」であるかということが
わかる事例だといえるでしょう。

その翌年に称徳天皇が崩御すると
道鏡の権勢は急速に衰え、
やがて下野国の薬師寺へ左遷され没した。

秦氏は技術力・開発力・経済力・
宗教文化によって大きな富と権勢を得て、
その隠然たる力をもって
朝廷のさまざまな氏族と混淆したが、

徹底して政権の表舞台には立たなかった。

同系の山岳信仰をもつ氏族として
道鏡の栄華と失脚を「お手本」として
見ていたのかもしれない。

渡来人の氏族には、謂われなき冤罪で
非業の死を遂げた人が大勢いた。

いつ、どんな理由で「罪人」にされるか?

それも有名税の一部であり、
権力を握ることの二面性だといえる。

空海が病気を理由に引退させてほしいと
「辞職願」を再三にわたって
出していた理由
は、権力者の
裏切りと背信を恐れていたのではないか?

超能力者として祭り上げられ
空海は密教をとおして

レムリアンとしての使命である
「万人に教える、命の使いかた」
をドラマティックに展開した。

エスパーでレムリアンの空海が
中央から「消される」まえに
「消える」事を選んだといえる。

だから、空海は「入定」して
ずっと未来永劫、生き続けている。


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