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ユーミンを聴きながら

ユーミンの歌を聴きながら仕事をしている。といっても作業がヒマになったので、仕事のフリをしながらこれを書いているだけだ。大学生のころ、ユーミンの曲がひたすらかかっているバーがあって、たまに通っていた。その頃は、フランスやドイツの昔の詩人や作家や哲学者(リルケ、ド・マン、プルースト、ボードレール、ヴァレリーとか、あとはカントとか)の本を原文でちょっとずつ読む授業と、ギリシア語やラテン語の基礎文法とか、時代に逆行したような授業をいくつかとって、それ以外はカフェめぐり、パン屋めぐり、銭湯めぐり、夜は飲みに行ったりずーっとゲームをしたり、漫画を読みふけったり、本当にぶらぶらして暮らしていた。まだ10年も経っていないのに、ものすごい昔のことであるかのように感じてしまう。

あれから何年も経ち、仕事や、日々アップデートされる情報に追いつくことに意識を集中させていると、あの日々が、全く別の世界のことであるかのように思えてくる。ユーミンを聴くと、そんな以前の記憶が懐かしく蘇ってきた。

あの時は、授業で読んでいる、近代のエスプリたちの遺産を、今この時代に我々が読み直して解釈していくという作業の意味が、社会や経済に対するどのような貢献につながるのか、ということについて、なんども考えてみたのだが、結局よくわからなかった。もちろんここからはそういう行為が現代においては無意味だという結論も導き出されるかもしれない。

今、大学への(特に文科系学部の)補助金をどんどん減らすという方針が進められており、官僚や大方のビジネスパーソンはそうした方向性に賛成しているようだ。反対デモを起こしている自称文化人みたいな人々の言い分は「教養が崩壊する」とか胡散臭いことしか言ってないので、全く共感できない。論文も大して書かない胡散臭い文系大学教授とかをどんどん解雇して、理系の研究にもっとカネを回すべきだし、潰れて然るべき大学や学部も当然あると思う。

でも、私が享受できたあののんびりした日々というものは、国が補助金として大学にカネを渡してきたからこそ実現されていたということは事実だ。

その一方で、働き方はどんどん変貌を遂げていて、単にカネを稼ぐというよりはむしろ、マインドセットを重視する、というような方向性に多くの人々の意識が向きつつあるように思える。こういう潮流の中では、IT技術の発展は相変わらずとても大事なことではあるが、19世紀西洋の、貴族社会から市民社会への社会経済の大転換時期を生きた人たちの思考の残滓をもう一度見直すことも、重視されても良いのではないか、と思ったりもする。しかしそうした思考実験を担うのは、もはや大学という機関ではないのかもしれない。例えば自発的に個人が作った寺子屋のような組織で、年齢に関係なく自発的に集まった有志の中で行われるようになったらおもしろいな、と思う。

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