「芸」と「霊性」

「楽器の演奏練習においてメトロノームは必要ない」という人がいます。
このような人はどういう人か想像してみると、

1)技術を極めてしまった人
2)一般論と相反する主張をすることでアイデンティティを保っている人、すなわち逆張りの人

の2種に大別できるかな、と思います。

「音楽は自由だ」という人がいます。
精神障害者の歌とか、西洋音楽のルールに到達できていない素人の演奏や作品に感動を覚えるらしい人たちです。
このような人はどういう人か自分の経験から想像してみると、

1)技術を極めてしまった人
2)一般論と相反する主張をすることでアイデンティティを保っている人、すなわち逆張りの人

の2種に大別できるかな、と思います。

いずれも2)のタイプの人は、サッカーを楽しんでいる人のところにきて、「君たちがやっているのはサッカーではない。本当のサッカーとはこれだ」とか言って野球を押し付けてくる、かなりヤバいタイプの人だと思うので、無視するのが一番です。

また、いずれの1)の方の人々についても、技術を極めてしまった(と思いこんだ)結果、素人の偶然性であるとか、スピリチュアルな部分にしか新鮮な感動を感じることができなくなっているのだと思います。
いずれも、普通の人には縁のない話で、これまた無視してよいと考えています。

さて、西洋音楽のルールを無視していても、リズムがめちゃくちゃであっても、その人が音楽と言えば、それは音楽なのだろうとは思います。
しかしです。それが人に感動を与えるというのであれば、日夜練習に励んでいる人たちは無意味ということになってしまいます

ですので、私は多分、「芸」としての音楽と、「自己満足」のための音楽があるのだと思います。
自己満足を尊ぶ、いや、自己満足に依存する「自己満足教」の人たちは救いようがないので放っておくとして、音楽にとって「芸」とはなんぞや?ということになりますが、私はそれについて難しい言葉を弄する必要はなく、単純に

「演奏における音価、音高、和音等、音楽を構成する要素の精度、そしてその再現性が一般の人ができないレベルで秀でていること」

ではないかと考えています。
だからまずは、自分の演奏や作品が「芸」の域に達することを目指すべきかと考えます。

ポピュラーミュージックの世界では、「自分がやっている音楽は芸術ではない」という人が多くいらっしゃるように感じていますが、それは単純に「『芸を提供する』というリスナーに対する責任から逃げたい」という人々なのだと思います。

そりゃあ「芸の道」などと言ったら堅苦しく感じますので、逃げたくなる気持ちもわかりますし、そういう場も必要なのかもしれません。

ただ、いまのポピュラーミュージックは発展して、もはや「素人の遊び」は仲間内でしか通用しないことは、これまでここで書いてきたとおりで、そこから目を背けるのは現実逃避です。

以上のことから、「メトロノームは必要ない」や「音楽は自由だ」という発言というのは、自分の「芸」が世の中から認められて、はじめて説得力が出る言葉なのかな、と思います。


一方で、「スピリチュアルな部分」「霊性」というものも無視できないと考えています。
たぶん「芸術」とは、「芸」を極めたいと願う過程で、制作者や演奏者の意思とは関係なく霊性が宿った作品や演奏なのではないかと、今は考えています。

なので、自己満足、芸、霊性のいずれしか支持しない、目指さないというのは「極論」というものなのだろうと思います。
そう考えると、実は「極論」とは、ある意味ではやはり「逃げ」で楽な道なのだと思います。

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