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葬い

待ち合わせ

 その日、私は西武線の駅で大学時代の友達と待ち合わせをしていた。19歳の呑気で明るい時代を一緒に美大で過ごした友人三人と。本当は四人で、いや六人で待ち合わせているはすだった。クリスマスや週末の飲み会、スキー旅行…輝かしい時代を過ごした仲間たち。

 三人だったのには理由がある。一人は結婚して海外に住んでいた。あと二人はすでにこの世にはいなかった。

 その日は、亡くなった友人Aの家にお線香をあげに行くために友人と待ち合わせていたのだった。イギリスからの一時帰国の最中だったが、夫と子供を実家のある福島に置いて、私一人東京泊でAの家にお線香を上げに行く事にしたのだった。

 唯一なくなったAの両親とコンタクトがあった友人Eが、A宅の訪問を手配してくれ、別の友人Mが車を出してくれた。そして学生時代いつも一緒に過ごしEと共にAの葬儀に出席したHも同行してくれた。

 久しぶりに会った友人達は皆変わりなかった。一瞬で時間が戻ったようにも思えた。友人Mは家族の事業を引き継いで実業家として成功していたし、Hは独身ながら既に自分の家を購入、皆各々の人生を歩み始めている。Aの弔問に行くのとは思えない程、ウキウキと話が弾んだ。まるで時間の針が15年いっぺんに戻ったようだった。道案内役のEに「Aちゃんの家に行ったことがある?」と、聞かれた。

 そうだ、私は一度か二度、Aの家に行った事があった。明るく暖かで、居心地が良く、お母様にもてなしてもらった覚えがある。

Aの実家にて

 西武線の駅から車で10分ほど、閑静な住宅街にAの家はあった。概ね記憶の中にあるAの家と変わりない。呼び鈴を押すと、Aの母親が迎えてくれた。

 「本当に今日はありがとうございます、一時帰国されている時にわざわざ来ていただいて…」と中に案内してくれた。ほとんど記憶と変わりないのに、空気が重苦しい。覚えていた感じとは違う、不思議な違和感がある。

 仏壇のある客間に通してもらい、お線香を上げさせてもらった。以前お邪魔した時には、確かこの仏間でお茶を頂いた。ああ、私の一人暮らしの寂しいアパートとは何て違うんだろう、と当時は思っていた。お母さんと娘がこんなに仲が良いんだ、と当時19歳の私は感心してた。まるで姉妹か友達のように楽しそうに話していた。Aの世話をするのが生き甲斐のような、優しいお母さん。忙しくて厳しい私の母とは大違いだなあ…なんて当時は思っていたのだ。あのウキウキと明るかった客間が、今は空気がうっすらと薄墨を垂らしたように暗くひっそりしている。

 お線香を上げた後、茶の間でお茶をいただいた。Aの父親が帰宅して一緒にお茶をいただいた。元気で明るいAの父親のお陰で、場が少し和んだような気がした。ふと、Aの母親の体が常に小刻みに震えているのに気がついた。

 私が、学生時代一度こちらにお邪魔した事があるんです、と伝えると、

 「そうそう、貴女あの時はスキー旅行の打ち合わせに来てくださってね、遅くなったので『お食事してくださいね』って、ホタテの炊き込みご飯をお出ししたら『とっても美味しいです』ってお代わりされてね…その後『バイトの時間になりました!』って、大急ぎで自転車で小平に帰られたのよ…」

 と、笑って話してくれた。私はそんな事はすっかり忘れていたのに、Aの母親は覚えていてくれた。私がすっかり忘れていた私自身の15年前の私。夢と希望と、若さと悩みで一杯だった19歳。記憶の彼方に埋もれていた私自身の姿だ。

 「その後、自分の人生を生きて、今海外で暮らしてねえ…頑張ってますねえ」と、Aの父親が微笑みかけてくれた。Eが「今日はFも来たがってたんですが、今旦那さんの駐在先のフィリピンなんですよ。今3人目を妊娠していて、よろしく言ってました」とAの両親に伝えた。Aの母親は、

 「そうなんですよね、皆さん、そうやって人生が前に前にって、進んでいってるんですよね」

 と、震える手で茶碗を握り、寂しそうに溜息をついた。ふと居間に飾ってあったガラスケースに収められた美しい日本人形が目についた。Aの名前の入った札が飾られている。Aの幸せ、未来、健康を祈って誰かが贈ってだであろう人形。Aは彼女の幸せを祈りながら育てた人達、Aが人生の幸福だった人達を置いて、一人世を去ってしまった。

 Mが藪から棒に「お母さん、スキー旅行の相談なんてよく覚えてましたよねえ。ねえ、あのスキー旅行の事、覚えてる?面白かったね」と言い出した。Hが「そうそう、大学の清里寮。私達しかあの時は滞在してなくて。晩御飯美味しかった、一緒にお風呂に入ったり…Aちゃん、あの時も皆がスキーで怪我しないかすごく心配してたのに、結局自分がスノーボートの人にぶつかられて怪我しちゃって」と続けた。Aの母親が「そうなの、不器用なのよねあの子」と少し笑った。私もふっと昔を思い出して、

 「Aちゃん、いつも自分を後回しにしてでも、皆の事を気にしてくれて。私に『あなたって細かい事を気にしてないようで、お大雑把なようで、本当はすごーくすごーく気を使ってるよね、私にはそれが伝わるよ』って言ってくれて。本当なんです、誰も見てなかった自分の気持ち、私の母すら気づかなかった自分の感情を、Aちゃんだけが気づいてくれて。それがとても嬉しくて…」

 と、Aの両親に伝えた。そうだった、Aはいつも他人の気持ちに敏感だった。Aの母親が、少し驚いたように言った。

「まあ、そうだったんですね。それは聞いた事がなかった、それは私の知らないAだわ…今になって発見するなんて事もあるのね…」

 戸惑いとも喜びともつかない表情で言った。その後はひとしきり、大学時代のAの思い出話になった。お洒落で気遣い屋さんで、明るくて人気者だったA。才能溢れて知的で、だけど不器用だったA。

 帰宅の時間になって、父親は「本当に今日はありがとうございました、Aも喜んでくれたと思います」といってくれた。玄関まで見送ってくれたAの母親が「少しだけ、Aが戻ってきてくれたみたいでした」と、深々とお辞儀をしてくれた。車が出た後もAの母親はずっと玄関で見送っていた。

Kの思い出

 帰り道、Mのはからいで癌で亡くなったもう一人の友人、Kのお墓にお参りする事が出来た。綺麗で静かな墓地の一角にKのお墓はあった。Eがボソリと言った。

「Kはね、癌だったんだよ…何度も診断に行ったのに丁度骨の陰になって見えにくいレントゲンに映らない場所に出来てしまって。気がついた時にはもう全身にまわって、どうにもならなかった…」

 学生時代、皆で飲み会をする時、家が離れていたKだけは、私のアパートや他の一人暮らしの子のアパートに泊まるのが常だった。Kはいつも「お母さんが持って行けって言うの…」と恥ずかしそうに高級な贈答品や素敵なお土産をくれて、本人はお酒の量も程々に抑えていた。箱入り娘で美しくて、いつだって優しかったK。健康的で誰からも愛されたK。

 あの学生時代の飲み会で、タバコを吸っていたのはむしろ私だった。Kは全くタバコを吸わなかった…Hが「お酒やタバコとの因果関係はわからないよ、気にしたって仕方ないんだから…」と言った。

 別れ際、色々手配してくれたEとH、車を出してくれたMにお礼を言って別れた。「元気でいよう、元気でいたらまた会える…」とHが言ってくれた。寂しがり屋で優しいH、思いやりがあって感情豊かなE、しっかり者で大人なM…皆大好きだ、元気でいたらきっとまた会える。

Aの両親には言えなかった事

 上野駅に着く頃にはすでに遅い時間だったせいか、いわき駅行きのスーパーひたち号の自由席はガラガラに空いていて、車内には誰もいなかった。食欲はなかったけど、押し寿司やビールを買って席に落ち着き、窓に額を当ててフーッとため息をついた。その途端に涙がツーっと流れてきた。流れて流れて、止まらなくなった。

 私にはAの両親に言えなかった事があった。Aは昔、私の銀座での初めての個展に来てくれていた。あの時Aの様子は明らかにおかしかった。閉廊の時間になっても画廊から出ようとしないAを、私はバーに連れて行き、食事をしながら話を聞いた。Aはまるで壊れたレコードのように同じ事を繰り返していた。目が虚ろで会話が成り立たない。別れた後も、私はAの事が不安で堪らなかった…なのに私は私自身の人生で精一杯で何もしなかった。一人暮らしだった私は、実家暮らしでお金の心配もないAの問題を軽く考えていた。

  いや、違う。東京で一人暮らしだった23歳の私は、日々の忙しさや新しい興奮に夢中で、彼女の事を置き去りにしていたのだ。忘れたかった、目を逸らしたかった。バブル景気は完全に終わり、絵は売れなくなって、職場も倒産の一歩手前だった。彼女を見捨てなくては、自分は生きていけなかった。

 ぼんやり立ちすくむAに、銀座の駅で「さよなら」と言った後もう一度振り返ると、無表情にまだAは私の方を見て立ちすくんでいた。私は早足でその場を立ち去っていった。あれが生きているAを見た最後の瞬間だった。

 だけど、だけどまさか、あの後死んでしまうとは思わなかった。

答えは出ない

 スーパーひたちが走り出した。真っ暗な闇の中にキラキラ光るネオンを窓の外に見ながら、私はずっと涙が止まらなかった。見られると恥ずかしいので顔を覆いながら。静かに嗚咽を繰り返していた。

「嫌だ、嫌だ、こんなの嫌だ…」

 私は一人で繰り返していた。何が嫌なんだろう。友達を見捨ててしまった自分のエゴが?友達一人助けてあげられなかった利己的で卑怯で、弱い自分が?若い女性の車掌が切符を確認にやってきた。彼女に、大丈夫ですか?と声をかけられたので、少し揺れに酔ったみたいです、とだけ答えた。

 Aは両親にあんなにも必要とされていたのに、Aは私の嘆きを理解してくれていたのに…なぜ、私はAの嘆きが理解できなかったんだろう。なぜ私は苦しむAから逃げてしまったんだろう。

 答えはなかった。私はただ、家族の待つ福島に帰りたかった。列車は東京を離れ、松戸、土浦を過ぎた。列車はゴトゴトと音を立てて、少しずつ明かりの少ない暗闇に向かって、ただただひたすら走り続けてた。

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