参勤交代1

日本を支配する政治的施策 - 【人口世界一:その4】

徳川家が打ち出した個別の政策のほとんどは、秀吉あるいは信長が実施した規則・制度を踏襲する形をとっていたことは前回の記事で纏めました。

家康とその後継者たちは、そうした規則・制度をさらに体系的に実施しました。なかでも諸大名をどう扱うかは、最重要課題の一つだったそうです。


家康時代の大名の管理方法

家康が実施した大名を管理するための施策はざっと以下の通りです。

・一国一城令を発令して城の数を一つの藩について一つに限定させた。
・大名たちに自分への忠誠を誓わせた。
・大名たちが勝手に同盟関係を結ぶことを禁じた。
・大名たちが徳川家に対してきちんと恭順しているかどうかを確かめる為に「大目付」または「目付」という監視役を派遣した。
・大名たちに、婚姻に当たっては全て事前に徳川家の承認を得ることを義務付けた。
・大名たちに定期的に江戸城の建設をはじめとした様々な建設プロジェクトへの多額の資金の拠出を要求した。

しかし、これらの施策の発令や、プロジェクトへの資金拠出などの貢ぎ物を強制することは、家康あるいはその後継者たちが大名に要求できた精一杯のことだったようです。

家康は、秀吉の例にならって軍事的には徳川家よりも弱体な大名たちとの同盟システムを利用して支配するという方法を選択しました。家康が自分の命令に従順に従うことを条件に、比較的自立した藩を代々世襲によって支配することを認めました。そうした支配を認められた大名は約180名程度であったと言われています。この各藩の財政的な自立性を認めたことは、徳川家の権力を大きく制約しました。


3代家光時代の大名の管理手法

家康の孫の家光は、徳川の権勢をかなり拡大強化しました。

家光は大名の領地を没収し、より信頼できると見做した他の大名に与える権限を確立しました。また、一部の大名に領地の交換を命じて、その力を弱体化させる権力も確立させました。多くの領地の一部を没収し、直属の家臣たちに分け与えることも行ないました。そのような徳川家直轄の領地は「天領」と呼ばれました。

こうした措置によって徳川一族とその同盟者の覇権をそれ他の藩内にまでより強く浸透させる力を持つことになりました。合計すると家光は当時の日本の総石高の5分の1に相当する約500万石分の領地を再配分しました。家光は関ヶ原の合戦で祖父の家康に敵対した、いわゆる外様大名に対してとりわけ厳しかったと言われています。

家光は、江戸周辺には徳川家の直轄領を同心円状に配置し、さらにそれを取り囲むように徳川一門の親藩や、関ヶ原以前から徳川家と同盟関係にあった譜代大名の諸藩を配置して、権力基盤を固めていきました。その一方で、外様大名は中央からなるべく遠い地方に配置する措置をとりました。


家光が体系化した『参勤交代』という人質システム

家光はまた参勤交代制というきわめて重要な新機軸を打ち出しました。

これによって徳川家がかつて敵対していた潜在的なライバルたちを抑え、覇権の頂点に立つという構図が完成したことになりました。この制度自体は徳川幕府設立以前からあり、その制度を大々的に拡充したもので、ルーツは14世紀はじめに、当時の将軍が一部の大名を管理する為に用いていた制度にまで遡ります。

その当時、大名は自分の領地に居住するのではなく、将軍の監視の目が届きやすいように、当時の都だった京都に居住し、将軍の統帥下に入るよう義務付けられていました。16世紀末にも秀吉が時折、主要な大名たちに対し大坂城の近くに留まって日常的に出仕するように義務付けたこともありました。

しかしこれらの制度は幕府の所在地にとどまって出仕することを義務付けていただけで、所定のスケジュールに基づいて恒常的、普遍的に実施されていたわけではありませんでした。

1635年から42年に至る期間に、家光は、参勤制を恒常的な制度として確立しました。家光は、全ての大名に対し自領内での城や屋敷の他に江戸にも屋敷を構え、隔年交代に江戸屋敷に居住して将軍の下に参勤することを義務付けました。江戸での勤めを終えると、大名は妻子を江戸に残したまま所領に戻り、次の参勤までの1年間妻子と離れて暮らすことを義務付けられたのです。

参勤交代2

この制度は大名の妻子たちからなる『人質コミュニティー』とでもいうべきものを作り出したもので、政治支配のシステムとしてきわめて効果的だったと言われています。ただし人質の置かれた状況は江戸からの脱出を試みない限り、非常に快適なものだったらしいです。

参勤交代制の実施に伴い、幕府が江戸近辺の関所で江戸に入る鉄砲と江戸から出る女性を厳重に検めたことから「入鉄砲出女」の標語が知られるようになりました。反乱を警戒して鉄砲の流入と大名の妻女の江戸からの脱出を防ぐための措置でしたが、徳川幕府が設立して以後200年間に幕府が深刻な反乱などを受けたことは一度もありませんでした。


参勤交代制度が生んだ副次的な効果

参勤交代制は大名を支配するだけでなく大名の力を大きく削ぐという効果も持っていた実に巧妙な制度でした。大名は自分の所領内に世帯を一つ維持すると共に江戸でも二つないし三つ維持しなければならず、世帯を維持する為の多額の出費を余儀なくされました。

所領の城と江戸の間を行き来するための大名行列もまた膨大なコストが掛かったそうです。通常、大名は年間の税収の内多い場合は3分の2を江戸屋敷の維持に必要な人件費として使い果たしたと言われています。参勤交代制の下、自分の領内で過ごす時間が削られる為、藩政への関わりが希薄になり、結果として大名の政治力が弱まる効果も発揮していたとのこと。

さらに大名は幼少の頃は江戸で母親とそのスタッフに養育される為、成人するまで自身の領地に足を踏み入れることがないのが一般的で、領地との一体感を削ぐという効果もあったとのことでした。


今後このテーマで深掘りしていく点

今日は特に、家康・家光の時代に確立された『大名』を支配する仕組みを纏めていきました。

引き続き、徳川家前半期にその支配体制を築いた制度を中心に深掘りしていければと思っています。

今日はこの辺で。

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