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そうだった、そういう国だった。──映画「Winny」を観たよ

昨日、映画「Winny」を観てきた。動機は大したことない。素朴な好奇心。2000年生まれのぼくに当時のニュースをリアルタイムで見聞きできたわけもないし、特段ゼロ年代のネット文化に興味があったわけでもない。ただ、どうやらあの頃には異様な熱気があったことはよく聞いている。今を生きる若者からはしばしば「ネットに疎いおじさん」と安易にカテゴライズされてしまう40代50代だが、よくよく話を聞くと彼らには「おれらはネット黎明期から共に成長してきたんだ! お前らなんかより詳しいに決まってるだろ!」という強い自負がある。異常なエネルギーを感じる。ハッキリ言って、おかしい。熱すぎる。だからぼくとしては「おーおー、そんな熱くなれる青春を過ごしたゼロ年代ネット文化っつーのは、どんなもんじゃい」。そんな気持ちでこの映画を観た。

結果、観てよかった。ソフトウェア開発者の責任については議論の余地はあるだろうが、正直そんなことは些末なことである。少なくともこの映画との関係においてはどうでもいい。この物語はもちろん金子勇という類稀な才能を持つ天才プログラマーの悲劇であり、いまにも続く警察・司法権力 - メディア - 大衆のあまりにも滑稽な喜劇である。しかしそれだけでなく、この一事変に、今の日本の閉塞感のすべてが詰まっているように思えた。劇中にもある「出る杭は打たれる」は、日本の同調圧力を端的に表現するものだ。出る杭としての金子勇が打たれたという話であると同時に、出る杭にならないようにと努める警察官や新聞記者たちの「小さな諦め」が積りに積もって結果として取り返しのつかないことが起こるんだということが、イヤというほどわかった。みんな自ら作り上げた幻像に勝手に気を遣って、勝手にいろいろ諦めている。この諦めが良くも悪くも今の日本を成り立たせている。

日本は、大変貴重な才能を失った。失ったというより、自ら葬った。そしておそらく、これからもそうだろう。多少のリスクを孕みながらも大きく未来を変える可能性を持つもの、「未知数なもの」「理解できないもの」は全て「危ない」「他人に迷惑をかけるからダメ」で片付けられる。ああ、そうか、そうだった。この国はそういう国だ。

金子勇がもしソフトウェア開発を続けていたのなら、今の日本の情報産業はどれほど違っていただろうか。考えようとするだけで、頭が痛い。ともあれ、東出昌大の演技には独特な味わいがあり、吹越満のそれにはコクがありまくりのいい映画だった。


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