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わからないもんは、わからない。それでいいんだ──映画「ちひろさん」を観たよ

磯崎憲一郎:取材で、「この作品[小説]で言いたかったことは何ですか」と聞かれることが多々あります。その質問は、よく考えると、バカバカしい質問ですよね。たとえば、音楽家に「この曲で何が言いたかったか」とか、画家に「この絵で何が言いたかったか」とは質問しないでしょう。それを知りたかったら、曲を聴け、絵を見ろ、という話です。それと同じで、「この小説で言いたかったことは何か」と聞かれて、簡単に答えられるものならば、それを1行で書けばいいと思うのです。(…)ジミー・ペイジのギターソロは20分くらい続いたりしますが、その20分を体験することで生まれてくるものがあるとしか言いようがないんです。(…)小説も、その分量を読むという行為を通してしか生まれないものがあるはずです。

三井物産でバリバリ商社マンをする(2015年退社)傍ら、執筆活動にも精を出しまくる小説家・磯崎憲一郎が、経営学者・楠木建との対談で語った一節である。続けてこんなことも言う。

磯崎:(…)今の時代は、わからないことが悪という風潮が強いように感じますね。「要するに、何なのか」が常に求められている。正解がないなかに居続ける余裕みたいなものがなくなっているのかなと思いますね。

要するに、何なのか。こんなにアホ丸出しの質問があるだろうか。そんなもん自分で考えろとしか言いようがない。

しかし、そんな悠長なことも言ってられず、多くの人間は生き残りをかけた競争の中で勝ち残るために日夜「役に立つこと」を探し求めている。そう、端的に言って、余裕がなくなっている。エロ・グロ・ナンセンスなんてもう思い出せない。夢のまた夢。人生100年時代と言ってる割には、早急に結果を求めすぎているような気がしてならない。

まぁそれはさておき。ぼくが今書こうと思っていることは「わからないということ」についてである。わからないことをわからないままにしておくのは、気持ちが悪い。釈然としない。こと人間社会となると、不可解な行動や現象は不安を駆り立てるので、どうにかこうにか説明がこじつけられる。このような感覚は「物事には必ず原因がある」「人々の行動には必ず理由がある」という考え方と表裏一体である。

しかし、本当に人間の行動には必ず理由があるのだろうか。そんなに、なんでかんでもピシッと一本筋が通るものなのだろうか。通っていたとして、その全てを誰しもが理解できることなんてあるのだろうか。

映画「ちひろさん」に向けられた感想を見て、そんなこと考えている。「娼婦の時点でムリ」という感想は論外だが、「ちひろさんが街を出たのは、なぜなんだ」「まったく伏線が回収されてないではないか」「何にも解決してないじゃないか」「雰囲気出してるだけで、結局何も変わってない」云々カンヌン。

この手の感想を抱く人は等しく「要するに、何なのか」「結局、何が言いたいのか」と問いたいのだろう。人間の行動を何らかの理由に帰属して、すっきりと「理解」したいのだろう。でも、果たして我々の行動のすべてに、理由なんてあるのだろうか。あってもいいが、なくたって別にいいのではないだろうか。

相手の行動の意図を理解しようと思ったり、気持ちを汲み取ろうとすることを否定したいわけではない。しかしその魂胆には、「人間同士、必ずどこかで分かり合える」という素朴な理想主義があるように思う。ぼくはハッキリと言いたい。そんなことはありえない。分かり合えることなんて、そうあることではない。人生でそんな経験が何度も出来たのなら、それはそれは幸せ者である。でも多分それはわかった気になってるだけ。何もわかってないくせにわかったような態度でいられるほど腹立つこともない。「ちひろさん」という映画は、一つひとつの行動を宙ぶらりんにし、全く意味を説明しないことによって、我々が人間に抱いてしまう理想を破壊してくれる。そして同時に大事なことを教えてくれる。

ぼくらはわかりあえなくたって、一緒に生きていくことはできるんだ。

人間の行動はそもそも理路整然としていない。人間の「人間らしさ」はおそらく、全くもって他人には理解できないようなぶっ飛んだことをやってしまうところにある。そして、それこそが人間の愛すべきところであるように思う。

いまもっとも必要なのは、わからないことをわからないままにしておける寛容な心と、何があっても動じない余裕綽々な態度であるのではないだろうか。「ちひろさん」は、今のぼくらが最も必要としている映画のひとつである。ナイスだぜ、有村架純。ナイスだぜ、今泉力哉。そしてそして、ナイスだぜ、豊嶋花。

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