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60年代下町の我が奇跡の父天上のメニュー

シジミの味噌汁掛けご飯という下町Bグルメは今でも食べられるけど、60年代が終わった1974年以降は我が家の食卓から消えてしまった我が父の天上の一品があった。
といっても別に近所の名店が廃業したわけでも、父が拵えなくなったのでも無い。そもそも父はほぼ料理しない人だった。
大きな事件と社会変化が我が父の天上のメニューを奪ってしまったのだ。
その天上のメニューとは北海道の活き毛蟹一杯喰いである。
毛蟹は生きていると一匹調理されて食卓に上ると一杯と数える。
さて1960年代高度成長期当時下町で生活雑貨の問屋を営んでいた父は、販路拡大で北海道に毎月出張していた。
父は出張すると決まって活き毛蟹1箱をお土産に買って帰ったのである。
だから母は父が出張から帰る日は大きな寸胴鍋に湯を沸かして毛蟹を釜茹での刑に処すべく待ち受けたのである。
北海道の冷たく暗い海底で生まれ育った毛蟹はまさか遠く離れた下町の寸胴鍋の熱湯の中で昇天するとは考えてもみなかっただろ。南無阿弥陀仏~
60年代はまだ毛蟹は豊富に獲れる一方で北海道に行く人も市場に流通する量もそれほど多くなかった。要するに毛蟹の供給は多かったけど需要はそこまで無かったから札幌の市場で安く手に入ったのであろう。
恐らく海の底から引き上げられて市場に並べられた活き毛蟹は鮮度が大切で当時ののんびりとした物流速度に耐えられなかった、
だから父のように飛行機でハンドキャリーするのが唯一の正解だったのだ。そんな賢い父は家族1人1人に一杯一匹の毛蟹を買って持ち帰っていた。
子供心にも茹でたての毛蟹は実に美味いものだったあの蟹の身と蟹味噌の味は僕の脳味噌に深く刻み込まれた。
きっとあのカニ味噌は僕の脳味噌の一部になっていたに違いない
そんな我が家の至高のメニューの大きなターニングポイントとなったのは1966年に発生した千歳発羽田行き全日空機60便の墜落事故だ。
ちょうど出張で北海道を訪れていた父はその便に搭乗して帰宅する予定だった。
たまたま現地で商談が長引いて飛行機に乗り損なった父は九死に一生を得て墜落した次の便でいつものように毛ガニの箱をぶら下げてただいま~と帰ってきたのだけど、乗りそこなった60便の乗客名簿には父の名があった。
我が家には近所に住む親せきや社員たちも集まっては上へ下への大騒ぎ、機上の人だったはずの父は機上のどころか天上の人になったものと誰もが思っていたまさにその時そうとも知らずに呑気に毛蟹の箱ををぶら下げて羽田が騒々しかったよ~とのたまいながら帰宅した父とは裏腹に父の昇天を覚悟した母の動揺と驚きと混乱は収まる事なく、我が家には飛行機禁止令が発令されたのである。
すると父の出張は夜行列車になって天上のお土産はあえなく消失してしまったのだった。
おそらく父が買ってくる活き毛蟹は、電車の長旅には耐えられなかったのだろう。
やがて墜落事故の余韻もおさまり我が家の飛行機禁止令が解除された頃には日本全国万博景気でこんにちは世界の国状態。それまで出遅れていた北海道の経済も一気に活況を迎え毛蟹の値段も需要も茹でる前の鍋のように沸騰し始めていた。
そうして我が家食卓からは天上の毛蟹はひっそりと消えたのである
。蟹を食べる時は誰もが無口になり、ひたすら身をほじって小皿に盛っているとそれ食べないのなら食べてあげるよとか親に揶揄われなが蟹は食ってもガニ(エラ)食うなという父が現地で仕入れた教訓だけがかつての北海道土産の代名詞木彫の熊(その後何故か僕の部屋に陣取っていた)のように残ったのである。
我が家に天上の毛蟹の味覚と教訓と奇跡の思い出を残した父は特に美食家ということでは無かったように思う。というのもたまの日曜日気が向いた父が昼に作ったのは解いた卵入り小麦粉に食パンをひたしフライパンで焼いて豪快にソースをぶっかけるという、ウスターソースフレンチトースト?といった得体も、出典も不明な料理であったり、たきたてごはんにバターをのせて醤油をかけて食べると言う。これも出典不明たぶん酪農王国北海道グルメなど、極めて庶民的な味を好む人であった。
食に関する武勇伝では食糧難の戦時中に友達と機械油で天ぷらを揚げてお腹をこわしたというものだ。
以上が危うくかつて天上の人になりかけた一庶民の奇跡の父が我が家にもたらした天上のメニューのお話しでした。カニッカニ~

これは当時の写真ではないけれど、当時の食べ方は再現されている。

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