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信仰と宗教

日本人は諸外国に比べて無宗教な国民と言われる。
しかも近年では新興宗教団体が起こした事件等の影響により、宗教というものそのものを敬遠するような風潮さえある。
そんな日本でも仏教式の葬式が一般的であるし、元旦には大勢の人が初詣に行くので、完全に無宗教というわけでもない。
確かに国によっては宗教が国民の価値観の基礎的な部分を担っている場合もあり、冠婚葬祭などのイベントだけでなく、日常の行動にも大きな影響を与えているところもある。
そうであれば日本人はやはり、そういった国に比べて信仰心が薄い国ということになるのであろうか?
今回は信仰と宗教について、私の考えるところを記述する。

1.「信仰する」とはどういうことか?

「信仰」という言葉は、ある特定の宗教を信じることを表す際に使われる。
しかし「信じる」ということであれば、宗教に限定されるわけではない。
宗教では、その教え=教義などがある程度体系化され、信者の間でその教義に沿った価値観や行動様式が形式化され共有されている。これにより宗教は時代や地域を超えて、多くの人に統一的な価値観を知らしめることができる。
一方で宗教のように教義が体系化されていない、民間信仰といったものもある。これらは一般的に○○教といった名前が付けられるわけではないが、伝承や言い伝えなどによって、それを信仰する人々に一定の価値観を与えている。
そういった民間信仰は宗教のように教義が体系化されていないため、なぜそれを重んじなければならないのかという理論部分において弱い傾向がある。
ただ宗教であっても、突き詰めればそれは同じで、その教義の根拠として示される、例えば世界創生の話であったり、世界の本質的な仕組みであったり、ということは、現代の科学的見解と照らし合わせた際に、理論的に正しいと言えないものも多くあるだろう。

それでも多くの人が宗教や民間信仰を信じているのは、問題は事実ではなく価値観だからである。
科学が明らかにするのは、事実として地球がどのように誕生し、どのような構造になっているかである。
例えばある宗教が、世界は創造の神が粘土をこねて作ったと教典の中で述べていたとして、確かにそれは科学的な知見から見れば荒唐無稽の話かもしれないが、宗教にとって本当に重要なのは世界がどのように誕生したかという科学的事実というより、もっと精神的なもの、つまりわれわれは何を信じるべきで、そしてそれを信じることはどれだけ人生にとって価値があることか、ということなのである。
もし信仰にとって重要なのは事実ではなく価値なのだということが分かれば、信仰の本質が見えてくるだろう。

もし何事も合理的に考える人が、こう考えていたらどうだろうか。
自分が置かれている社会は資本主義社会である。だからたくさんの金を稼ぐこと、それが価値のある人生だと。
確かに現代社会は資本主義社会であり、生きていく上で、お金はとても大切なものであるということは事実である。
しかし、それと同時にお金をたくさん稼ぐことが価値のある人生であるかどうか、ということは事実ではなく価値観の問題である。
例えば幸福という価値基準で考えたとき、お金持ちが必ずしも全員幸福であるとは限らない。つまりお金をたくさん持っていることは幸福という基準において十分条件足りえない。逆に金持ちでは無くても幸福な人もたくさんいる。
ところが上記の人は、資本主義社会は競争に勝ったものが富を多く占有できるという資本主義の事実としての構造をそのまま価値観に変換しており、なぜその事実をもってして、お金を稼ぐことが価値のある人生と言えるのかという考察にまで至っていない。
したがって「現代社会は資本主義社会である」ということは、単に現代社会における経済体制のあり方を示すものであり、どういう人生に価値があるかということまでは何ら言及していないにもかかわらず、その人は資本主義社会の構造が示すこと、それ自体に価値あると信じ込んでいるわけである。
つまり一見その人は合理的に考えているように見えるかもしれないが、内実としては資本主義社会において競争獲得の目的となる「お金」を価値あるものとして「信仰」しているに過ぎない。
もっと言えば、古い宗教は、長い年月をかけて蓄積された経験則や人生訓などが教義の中に織り込まれていることもあるわけで、その歴史は現代の資本主義社会の成り立ちよりも古いから、ひょっとすると「資本主義社会」に対する信仰の方が価値観の根拠という点において古い宗教より脆弱であることも十分あり得る。
そもそも現実のわれわれの人生は予測不可能なことばかりである。だからある価値観を信じて生きていても、それが結果として悪い方向に向かうことはある。お金をたくさん持っているがゆえ、詐欺にあい人間不信になるかもしれないし、強盗に襲われて大怪我を負うかもしれない。
だからこそ、これさえ信じていれば思い描いた価値ある人生を必ず得られるということはなく、結局のところわれわれができるのは「きっとこれを信じて生きていればより良い人生をおくれるはずだ」と信じることだけなのである。
そういったわけで、われわれは何らかの宗教を信じているか、それとも無宗教であるかによらず、ある程度は何かを信じる=信仰して生きていかなければならない宿命にある。

2.価値判断の主体をどこに委ねるか?

全ての人が何かを信仰して生きているはずだと提言させていただいたが、それでも宗教に対して危うさを感じる人もいるだろう。
それはなぜか?
次のような事例を想定して考えてみよう。

Aは人付き合いが苦手で、特に日本特有の縦社会や年功序列の風土に馴染むことができない。そんなとき社会的地位や年齢に関わらず、皆等しく接するべきだと説く宗教に出会う。その信者のコミュニティは誰もが皆タメ口で気さくに話を交わし、Aはそこがとても心地よく入信することにした。そんなある日、教祖がこのように言ってきた。
「年功序列という概念の温床は、1年生、2年生…と年齢により階層を区別する学校にある。だから近くの学校に忍び込み校舎の窓ガラスを破壊して回れ」と。
Aがもし自分の行動の基準となる価値判断をすべてこの宗教に委ねているのであれば、その命令に従ってしまうだろう。
しかしよく考えれば、学校が縦社会の要因になっているという根拠はどこにもないし、仮にそうだとしても、校舎を破壊したからと言って縦社会が無くなるなどということはありえない。
Aは元々、人間関係はフラットであるべきだという、この宗教の考えに共感して入信したが、校舎を破壊するべしという発想は、もはやその考えから理論的に導き出せる範囲を逸脱している。だからAが純粋に、この宗教が唱える人間関係のあり方のみに対し共感しているのであれば、破壊行為は本来自身の価値観において支持すべきものではない、という結論に至ることができるはずだ。
しかし、もしそうならないのであれば、宗教そして信仰はどうして人をそのような極端な思想に追いやってしまうのだろうか?

元来、何に価値があるのか判断するのはわれわれ自身である。われわれは何かに価値を見出すことのできる存在であり、したがって価値を主体的に創造できる存在である。だからこそわれわれはその他の事物にはない価値を越えた価値を持つ。
ところが、宗教は往々にして、神や教祖といったわれわれ人間よりも高次な存在としての価値の創造者を置く。そして、この高次の存在が価値あると見なすことことこそ真の意味で価値あるものであり、それに比べるとわれわれ低次の存在が価値あると考えるものは本当に価値があるとは言えないということになる。つまり神や教祖の説く価値観こそが絶対的に正しいとされ、その前では個々人が持つ価値観は取るに足らないものとされてしまうのである。
これにより個人の価値観は矮小化され、ただひたすら神や教祖の唱える価値観に従うことこそ真に価値のある生き方であると妄信的に思い込むことになる。これはまさに価値判断をすべてその宗教に委ねてしまっている状態である。

しかしよくよく考えてみると、Aはもともと自分の主体的な価値判断によりこの宗教の説く人間関係の在り方か素晴らしいと考え入信したはずである。
だからそれ以外の点について自分の価値観に沿わなければ、自らの判断により、その価値観を否定することは出来るはずだ。それができないのだとすれば、それは入信の時点で信仰の対象となるわれわれより高次の存在としての神や教祖を認めてしまうからである。この存在を認めてしまうと、より低次の存在である自分の価値観は些末なもので、神や教祖が説く価値観こそ重んじられるべきものだという図式が成り立つことになる。
これは宗教だけに限らないだろう。
この人の言うことは絶対に正しい、この人の言うことは絶対に信頼できると、特定の人物を崇拝し、その人の主張する内容の実際の信憑性や良し悪しについて何ら思慮することなく、すべてを鵜呑みにし、本来価値がないと思われるものを価値があると盲目的に信じ込んでしまう可能性がある。

一方で、例えば自分自身に価値はない(自分は悪人だとか出来損ないだとか)という考えに囚われていたものが、自分より高次の存在を認めた上で、その者から「そんなことはない、あなたは価値のある存在だ」と言われ心が救われる、ということはあるだろう。
このように宗教はある意味で無根拠に世界を希望に満ち溢れたものだと信じさせる力もあるし、一般的な倫理観では悪とされる行為を価値あることとして実行させる力もある。

このことによって私は、宗教など信仰せずに、あくまで自分の主体性でもってのみ価値判断をしていくべきだとは考えない。
人の知識や能力には限界があり、複雑化する現代社会において何が価値のあることで、何が価値のないことなのかという判断はますます難しくなってきている。前述で述べたとおり、人間はだれしも人生の選択の指針となる何かを信じることによって生きている。だから、その信じる指針として宗教を選ぶことは決して悪い選択ではない。
だがしかし最も重要なのは、その宗教を信じることはその人の主体的判断によって行われるべきであり、宗教そのものにすべての判断を委ね、人間が本来持っている何かに価値を見出すという特権のすべてを簡単に放棄してはならない、ということである。
そして同時に、あなた以外の他者もまた主体的価値判断を行う権利を持っているといことを認識しなければならない。そのことが理解できれば、他者を自分が価値あると目することの達成のための道具や単なる障壁のように考えることはできないはずだ。なぜなら他者はあなたの目的達成のためにどれほどの価値があるか測られる存在でなく、その人自身が価値を創出する主体そのものであるからだ。
もちろん、生きていく上では価値観の相違による対立はある。しかしそれは、相手にもその人なりの価値を創出するという権利を認めた上で、双方の協議により両者納得のいく解決策を見つけていくべきである。

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