「哲が句」を語る 「私とは何か」を問う困難

私はこの世界の中で生まれ、この世界の中で生き、この世界を見ており、この世界の中で考えています。
ですから、「私」とは何かを問うということは、ふつうに「この世界の中の」私とは何かを問うことになります。
そして「とは何か」と問うことは、「私」を、「世界の中にある」別の何かによって説明することを意味します。
ですが、このようにして「私とは何か」を問うて行くことには、いくつもの困難が待ち受けています。

まずいきなり、「とは何か」と問うことに大きな困難があります。
「私とは何か」という問いには「私とは何々である」と答えることになりますが、この「何々」にどんなものを持ってきても、ほぼすべての答えは「私」を説明したことになりません。
その最大の理由は、「私」とは唯一無二のものだからです。唯一無二の「私」にとって、「私」以外のすべての「何々」は「私」ではありません。
「私」以外の何かについて「Aとは何か」と問うた場合、「Aとは何々である」という答えの範囲をどんどん狭めていって限りなくAに肉薄していって、ついに「それこそAに間違いない」と言えるような「何々」に至ったとき、その結果、Aが3つあっても構わないわけです。その3つともがAだと言えます。それが「Aとは何か」という問いの答えです。
ところが「私」についてだけは「私」が3つあっては答えになりません。なぜなら「私」は唯一無二なものだからです。
「私」以外でも「唯一無二」と言えるようなものについては「Aとは何か」という問いに答えられない場合がありそうです。例えば「宇宙とは何か」とか「世界とは何か」のような場合です。

それでも、2つほど可能性のある答え方があるかもしれません。
ひとつは、「私」の唯一無二性を満たすかもしれない答えとして、それは「神」である、というものです。
「私は神である」
「私とは何か」を問うて、この答えに至ったとしたら、「私」が唯一無二でなければならないという理由でこの答えを拒絶することにはならないかもしれません。
ただ、「私」がこの世界の「神」であるとしてみると、色々とうまくいかないことが待ち受けていそうです。

もうひとつの答え方は、世界のうち、「非私」以外の部分が「私」である、というものです。
これは答えと言うよりも、元の「私とは何か」という問いを言い換えたと言った方が正しいと思います。
ですから、「私とは世界のうち非私以外の部分である」という答えを出した、というのではなく、問い方を見直すことで、まっすぐ前に進めなくなった問いを別の角度から進みなおしてみたらどうか、という考え方です。
この発想を別の言い方にすると、「私とは世界の中でどのように区切られているものか」という問いになります。
「私とは何々である」という答え方だと、「何々」にどんなものを持ってきてもうまく行きそうにありませんでしたが、「私は世界の中でこのように区切られている」という答えであれば、もしかしたら成立するかもしれない、という希望が持てます。

実際この問い方については、この私自身、結構格闘しました。
結論から言うと、私が出した答えは
「私とは始まって終わるものである」
あるいは
「私は世界の中で、始まりと終わりを持つように区切られている」
これについては、以前に記事にまとめました。

「哲が句」を語る 「はじまり」について① 始まって終わるもの|ego-saito (note.com)
「哲が句」を語る 「はじまり」について② はじまりの誕生|ego-saito (note.com)
「哲が句」を語る 「はじまり」について③ 人間は素粒子か|ego-saito (note.com)
「哲が句」を語る 「はじまり」について④ 直線世界と線分世界|ego-saito (note.com)

ただし、以前の記事にも書きましたが、「私」には、肝心の「始まり」と「終わり」を欠いているという難点があります。
私たちは、自分の「誕生」と「死」について、知ることができないということです。

「私とは何か」を問うことの困難は、「私」が世界の一部(=部分)であるということからくるものがあります。
部分は勝手に部分になったわけではなく、部分を部分と「ならせた」ものもやはり世界の中にあり、世界の摂理に従ったものです。
結局、部分である「私」を知るためには世界を知らなければならないということになります。
しかしながら、世界全体の部分である私が、世界全体を知ることができるのでしょうか。それはちょっと考えただけでも原理的に不可能なことです。

私が世界の一部であるということは、「私が私について考えていること」も、その先で「何らかの答えを得た(として)」そのことも、その場合に「私以外の世界について何かを知りえた(として)」そのことも、言えばきりがないほどある「私」がすることの一切合切は、それ自体がみなすべて「世界の一部」だということです。私が「私について思い悩み」「何がしかの希望をつかみ」「でもまた壁にぶち当たり」など、どんなにもがいても、そのすべてが「世界の一部」すなわち、世界にとっては「織り込み済み」のこととして、世界は「涼しい顔」をしていることでしょう。
世界の中で「私とは何なのか」、それは単なる「世界の一部」「何でもないもの」「単に私でしかないもの」
恐らくそれ以上の答えは原理的に得られないのではないでしょうか。

このように「私とは何か」という問いには原理的な困難があります。
つまり、そもそもこの問いは問うことができないものなのでしょうか。

いえ、安心してください!
これからみなさんを、一気に霧の晴れた澄み切った光景にお連れします。
上記に述べたような「私とは何か」を問う困難の根本にあるのは
「私は世界の一部である」
という前提でした。

ところが「底抜け」という考え方を持ち込んだ瞬間、事情が一変します。

私は底抜け
2023.08.19

「底抜け」とは、「私」の根源が「世界に属していない」ということを指した表現です。
「世界に属していない」ということは「私は世界の一部ではない」ということです。

分かりやすい例えをすると、私が会社に属しているとどんな発明をしてもそれは会社の発明であって私の発明ではありません。ですが、会社に属していなければ私の発明は、まさしく私の発明です。

私はどうして世界に属していると思い込んでしまったのでしょう。
私が世界に属していると思わせる根拠はいくらでもありますから、そう思ってしまっても無理はないと思います。
でも「私は世界の一部ではないかもしれない」と考えたことはありませんでした。
現状、「私が世界に属しているとする根拠」をすべて撃破するようなパワーは私にはありません。ただ、発想を変えてみたら目から鱗だった、という段階です。
「底抜け」の発想は、下記の記事に述べました。

「哲が句」を語る 一番ホットな私|ego-saito (note.com)

「底抜け」の発想は、一見冗談のように見えるかもしれませんが、根本的な打開策です。
「世界」対「私」という構図で考えることが原理的に成立するのです。
(もっとも、「私が世界に属していない」という発想を当然のこととお考えのような方々もいらっしゃるでしょうか。なんとなくそんな気もしています。そうであるならば、無知な奴だと笑ってくださって結構です。)

この発想、実は、いわば私が「神」だと言っているのに近いです。
ただ、普通に「私は神だ」と言う場合、それは「この世界」の神だということになり、それは全知全能とかでなければならないことになります。
それに対して、「底抜け」の神は、「私世界」の神であり、私の中ではなんだってできます。

ところで、私の話には、多くの場合、根拠はありません。
世間様がどうしても根拠を求めるのは、一種の信仰、あるいは病気ではないでしょうか。
少なくとも、この記事で述べたことに根拠を求めるのは原理的に不可能です。なぜなら、根拠は「この世界」の中でしか示せないものだからです。

宇宙って完璧な空間のように見えて、私にはポコポコいっぱい穴が開いているように見えます。
あると思わないと、穴は見えません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?