ego-saito

「問い」を問い続けて半世紀たちました。残りの人生も少なくなり、語る時が来ました。

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最近の記事

「哲が句」を語る 「同じ」の誕生~裸構造補遺

前回の記事で「同じと違う」が「裸構造」を持っているということを述べました。 その中で、「同じ」がどのように誕生したのかについても、ある程度のことを述べました。 「哲が句」を語る 裸の誕生~裸構造 存在の真実|ego-saito (note.com) しかしながら、もしも私がこれまで書いてきたことを子細に読まれた方がいらしたとしたら、私のことを二枚舌野郎だとののしっているかもしれません。 というのは、以前に私は、前回の記事とは全く異なる文脈において「同じ」の誕生に当たることを

    • 「哲が句」を語る 裸の誕生~裸構造 存在の真実

      あるものの「誕生」を探る、というやり方で、私は色々なことを考えてきました。 今回のテーマは「裸」です。 ではさっそく参りましょう。 裸はいつどのように誕生したのでしょうか。 かつてヒトはずっと裸でした。 だとすれば、裸の誕生は人類の誕生と同時だったのでしょうか。 これは事実としては何ら誤りはありません。 もっとも、体毛がなくなってすっかり素肌が現れたときではないか、とおっしゃる方はいるかもしれません。それはご意見として拝聴しておきましょう。 しかしいずれにしても、最初から

      • 「死」とは何か 「生」とは何か (6)一発逆転 最後のピース

        「実は宇宙も哀しいやつだ」 前回の記事の最後にそんなたわけたことを書きました。 「なんでお前にそんなことが言えるんだ」 そうおっしゃっていただいて結構です。 今回の記事はそれがテーマです。 さて、そのテーマに入る前に。 これまで5回の記事にわたって、「死」の問題から「生」とは何なのかという問題へ話を進めながら、私が若いころから考えてきた様々な考えを書き綴って参りました。5回の話は、内容があちこち広がって、やや分かりにくい部分もあったのではないか、という反省があり、いずれもう

        • 「死」とは何か 「生」とは何か (5)飛躍と主役

          今回の記事は、前回に引き続き、 「宇宙は色々なことを起こしたがっている」 「宇宙は試したがっている」 という「宇宙の陰謀」と、私たちの「死ぬ生」、私たちが「生きて死ぬ」ということとの関係を考え、そのことを通して、 ●私たちがなぜこの「生」を生きなければならないのか、 ●それはどのような「生」なのか、 ●どのような生き方ができるのか、 ●この「生」はこの先、どうなって行くのか、 などについて説明したいと思います。 前回の記事では、宇宙の階層的進化についての考えを述べました。

        「哲が句」を語る 「同じ」の誕生~裸構造補遺

          「死」とは何か 「生」とは何か (4)宇宙の階層構造=宇宙進化

          今回の記事では、 「宇宙は色々なことを起こしたがっている」 「宇宙は試したがっている」 という「宇宙の陰謀」と、私たちの「死ぬ生」、私たちが「生きて死ぬ」ということとの関係を考えてみたいと思います。 そのことを通して、 ●私たちがなぜこの「生」を生きなければならないのか、 ●それはどのような「生」なのか、 ●どのような生き方ができるのか、 ●この「生」はこの先、どうなって行くのか、 などについて考えたいと思います。 (長くなりますので、今回と次回の記事で、上記の課題を考えたい

          「死」とは何か 「生」とは何か (4)宇宙の階層構造=宇宙進化

          「死」とは何か 「生」とは何か (3)宇宙の陰謀

          前回の記事では「はじまりの誕生」ということを述べました。 その中で、「生」とは何かを考えるためには、「死ぬ生」の誕生について考えなければならない。特に「死なない生命」の側からみた「死ぬ生」の誕生ではなく、「死ぬ生」自身にとっての意味を考えるべきだろう、そのようなことを申しました。 今回の記事では、やや遠回りに感じられるかもしれませんが、最初に「誕生」というものの意味について考えたいと思います。 「死ぬ生の誕生」について考える前に、「何かの誕生」ということではなく、「誕生」と

          「死」とは何か 「生」とは何か (3)宇宙の陰謀

          「死」とは何か 「生」とは何か (2)はじまりの誕生

          記事:「「死」とは何か 「生」とは何か (1)逃れられない苦痛」(2023.09.16に投稿)の中で 「死からマイナス・イメージを取り除く 生からプラス・イメージを取り除く そうしなければ「死」とは何か、「生」とは何かを問うことができない」 このように申し上げました。 なぜかと言えば 「人は「生きる」ことを目的として作られているので、「生」に駆り立てられ、「死」を避けるように仕向けられる。そのために、生は過剰に美化され、死は極度に嫌われる」 そのような生死にかかわる厚塗りのイ

          「死」とは何か 「生」とは何か (2)はじまりの誕生

          もう一休み 大島泰郎先生と小尾信彌先生の衝撃

          人はなぜ生きて死ぬのか、という話を書き始めて、次の記事へ進むはずのところですが、前話から2か月近くも経って、なかなか手つかずになっています。 なかなか先に進められないのは、このあたりから、私が考えてきたことの核心部分に入って行くということがあり、なおかつ、その核心部分がつい最近になって、ある意味で揺らいできているということがあるという事情が、背景にあります。 もう一休みさせていただこうと思います。 今回の話は、私のもろもろの発想の根底にあるベースを与えてくださった先生方の思

          もう一休み 大島泰郎先生と小尾信彌先生の衝撃

          ちょっと 一休み

          何らかの「自覚」あるいは「意識」を持たなければ、「問う」ということはなく、問うことがなければ、他者と関りを持つこともありません。 しかしそのような一連のことが行われるようになると、人はそれを「生きる」とか「私」という言葉でとらえ、それと自ら向き合うことで「生きるとは何か」「私とは何か」といった問いを問うことになります。 「生とは何か」、そしてその生がやがて終わることになる「死とは何か」 これらの問いは、人間が人間である限り、問わずにはいられません。 あるいは、その問いを問う者

          ちょっと 一休み

          「死」とは何か 「生」とは何か (1)逃れられない苦痛

          「死」を思うとき、二つの側面が絡み合います。 「この生を失うこと」と「死に至る痛み苦しみ」と。 もしも死ぬことに痛みや苦しみが伴わないとしたら、絶望に自死する者、病を厭うて死ぬ者、あるいは戦いに挑んで死ぬ者などが、いまよりもずっと多いことでしょう。 だがそのようなことにはなりません。 なぜなら、もしも「苦痛なしに死ねる」遺伝子があったとしても、そのような遺伝子は自然淘汰されて、現在の「苦痛を伴って死ぬ」遺伝子だけが生き残るはずだからです。 従って、私たちの死は必然的に痛みや苦

          「死」とは何か 「生」とは何か (1)逃れられない苦痛

          「哲が句」を語る 「私とは何か」を問う困難

          私はこの世界の中で生まれ、この世界の中で生き、この世界を見ており、この世界の中で考えています。 ですから、「私」とは何かを問うということは、ふつうに「この世界の中の」私とは何かを問うことになります。 そして「とは何か」と問うことは、「私」を、「世界の中にある」別の何かによって説明することを意味します。 ですが、このようにして「私とは何か」を問うて行くことには、いくつもの困難が待ち受けています。 まずいきなり、「とは何か」と問うことに大きな困難があります。 「私とは何か」とい

          「哲が句」を語る 「私とは何か」を問う困難

          「哲が句」を語る 思いは伝わらない

          心に抱いた思いは、なかなか伝わりません。 思いはなぜ伝わらないのでしょう。 その理由が分かりました。 世界と私は 互いに到達不能 思いが伝わらないわけだ 2023.09.03 思いが伝わらないのは、世界と私が互いに到達不能だからです。 でも、それを分かっていただくためには、私が一つ前に書いた記事をお読みいただく必要があります。 「哲が句」を語る 一番ホットな私|ego-saito (note.com) ところがどうでしょう、こんなタイトルの記事、まともに読む人なんてい

          「哲が句」を語る 思いは伝わらない

          「哲が句」を語る 一番ホットな私

          「語る時が来た」 そう言って書き始めましたが、その理由の一つは、半世紀の間、好き勝手に考えていた脳みそが、なぜか考えるのをやめたからでした。 脳みそが考えるのをやめた理由や原因は、たぶん複合的なものだと思います。 だた、それは決して考えるべきことがなくなったということではなく…、と、普通なら書きそうなものですが、実は、もはや考えるべきほどのことはすべて考え終えたと思っていたからです。実に不遜な人間です。 ところが最近、なぜか私の脳みそが少し考え始めました。 それも、相当に根

          「哲が句」を語る 一番ホットな私

          「哲が句」を語る 私とは何か

          「「哲が句」を語る」と題して何回かの記事を続けてきましたが、いったん途切れました。途切れた事情は措くとして、ここではこれまでの流れを先に進めるのではなく、これまで書いてきたことを別の角度からご説明します。 私も、たいていの人と同様、「私とは何か」といった問いを抱きました。 たいていの人は、多くの偉大な先達も含めて、何らかの答えを求める努力をしてきました。 しかしながら、私から見ると、それらが徹底した問い方であったとは思えません。 多くの先達の思索については、私は述べる能力も

          「哲が句」を語る 私とは何か

          「哲が句」を語る ことばの誕生

          前回の記事までで、人間が人間になるための宇宙史上の3つの「革命」について、一通りご説明しました。 今回は3革命を通して、もう少しご説明します。 なお、今回の記事をお読みになる方は、それぞれの「革命」についてご説明した記事をお読みいただければ幸いです。 「セックス革命」 他者の誕生|ego-saito|note 「哲が句」を語る 「はじまり」について② はじまりの誕生|ego-saito|note 「哲が句」を語る 愛の革命(改題)|ego-saito|note 何かを考える

          「哲が句」を語る ことばの誕生

          「哲が句」を語る 愛の革命(改題)

          これまで述べてきた2つの「革命」は、他者にしろ生命にしろ、私たち人間が人間になるために決して欠かせないものを生み出したものでした。 「セックス革命」 他者の誕生|ego-saito|note 「哲が句」を語る 「はじまり」について② はじまりの誕生|ego-saito|note ただそれらは、私たち人間自身からはやや遠い話だったことも確かです。 いよいよ今回の「革命」は、私たち人間自身を生み出した、私たち自身に直結する話です。 類人猿のボノボは、かつてずいぶんテレビ等で取

          「哲が句」を語る 愛の革命(改題)