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【絵本エッセイ】うちの絵本箱#5『「しろいうさぎとくろいうさぎ」の示唆するところ』【絵本くんたちとの一期一会:絵本を真剣に読む大人による絵本本格評論】


特集:『しろいうさぎとくろいうさぎ』の示唆するところ


0.はじめに

 ついに第五回となりました。これまで大作にばかり挑んで、力量不足を痛感してきたのですが、今回も名作の誉れ高いアメリカの古典、『大草原の小さな家シリーズ』で有名な、卓越したイラストレーター、ガース・ウィリアムズ絵と文の、邦題『しろいうさぎとくろいうさぎ』(原題『ウサギの結婚式』一九五八年刊)を選んでしまいました。 

 一体どうしてこの本が我が家の本箱に紛れ込んでいたのでしょう。その出所は不明です。ですが、確かに私も幼いころに手に取った記憶があります。そのときは、「絵がかわいい~」という単純な理由で気に入りましたが、中身についてはよく理解していなかったようです。それを子供に読ませるようになって、気づいたことがありました。「どうしてくろいうさぎはあんなに悲しい顔をするの?」という疑問でした。結婚の話なら、もっと前向きで明るいはずだと思ったのです。ほかにも何点かありますが、とにかく不思議な違和感の残る作品なのです。今回は、そういった違和感を出発点として、分析を進めたいと思っています。 


1.本当に純愛?―ちょっと不思議な物語―

この本に関しては、ネット上の様々な声を聴く限り、ファンもアンチも多いようです。ファンには涙なしには読めない純愛物語として、結婚式の引き出物にしたというほどの強者もいるようですし、逆にアンチには、しろいうさぎの上から目線が嫌だとつぶやいている人が多いようです。

 私自身は単純なアンチでもファンでもないのですが、心にとっかかりを残す、違和感を覚えさせる、という点で、名作の条件をクリアしていると思う一方で、ことに「本当に結婚式の引き出物にするほどの単純な純愛物語なの?」と、そういった単純な見方に対しては疑問を感じるというのが正直なところです。

 そのままアンチの意見を丸呑みするわけではありませんが、実際、ちょっと不思議な印象を受ける点がいくつかあるのです。たとえば、幼なじみでいつも一緒にいられて幸せなはずなのに、

①    くろいうさぎが悲しそうな顔をするのはどうしてでしょうか。

②    結婚という前向きな課題をただ願うだけというのは、あまりに消極的じゃないでしょうか。また、

③    どうしてしろいうさぎはくろいうさぎのプロポーズにすぐに同意してあげないのでしょうか。ちょっと態度が傲慢ではないのでしょうか。

私は、こうした二匹の結婚に対する態度が物足りないと同時に不思議でたまらないのです。どうして強引に迫らないまでも、もっと積極的に押さないのでしょうか。誇らしげな幸せそうな顔をしないのでしょうか。どうしてあなたを愛している、今すぐ結婚して、とあけっぴろげにいわないのでしょうか。私は自分の結婚のときのことを引き比べながら、そんなことを考えましたが、手掛かりを得るために、本作品の中で、そういったことが描かれている場所がどうなっているか、詳しく見てみましょう。

 

悲しそうな顔

まずは、絵本のお決まりである繰り返しのパターンが続きます。

①    うまとびを「ぴょん、ぴょんの ぴょーん」とした後で、くろいうさぎが悲しそうな顔をします。そして、言います。「うん、ぼく、ちょっと かんがえてたんだ」と。考えてばかりで実行しないし、訊かれるまで何も言わない。諦めてばかりで、じれったい反応です。

これが、②かくれんぼ、どんぐりさがし、③かけっこ、水飲み、④ひなぎくとび、タンポポ食べ、と四回も繰り返されるのです。

この時点では、なぜくろいうさぎが悲しいのかわからないので、歯がゆいというよりも

早く理由を教えてほしいという気持ちになると思います。


願い事としての結婚

あまりにもじれったいしろいうさぎが、とうとうしびれを切らせて訊きます。「さっきから、なにを そんなに かんがえてるの?」「ぼく、ねがいごとを しているんだよ」「いつも、いつも、いつまでも、きみといっしょに いられますようにってさ」

このくろいうさぎの答えは、いつかはいっしょにいられなくなってしまうという可能性を恐れるというものです。死を考えているのか、子供時代が終わってしまうことを考えているのかわかりませんが、一言も結婚とは言っていないのです。また、ただ願うだけなのです。ますます不思議な感じを受けます。もし結婚を前提に言っているとしたら、普通は悲しい顔などしないで、熱烈にせき込んで、「君と一緒にいたい」というべきじゃないでしょうか。また、願うだけじゃなくて、実現するために、あの手この手を使うのではないでしょうか。


しろいうさぎの上から目線

ここでしろいうさぎも不思議な反応を示します。「ねえ、そのこと、もっと いっしょうけんめい ねがってごらんなさいよ」

いわゆる上から目線です。ちょっと生意気な感じがします。ただ、しろいうさぎも、願うだけなのです。実行しようとしないし、責任を取りません。「私、あなたとずっと一緒にいたいわ」とは、言ってあげないのです。少々冷たいのではないでしょうか。あるいは、迂遠といいますか。


美しいプロポーズ

続いて、はっきりとしたプロポーズの場面です。日本語訳と英語の原文では、多少ニュアンスが違うのですが、日本語訳では、「これからさき、いつも きみといっしょに いられますように!」となっています。英語では、「君のすべてが僕のものになりますように!」です。そして、「ほんとに そうおもう?」「ほんとに そうおもう」とやり取りが 続きます。

ここは、自信のない二人に、ふがいなさを感じます。願うだけなのでしょうか。また、くろいうさぎが保証する立場であるところがポイントだと思われます。くろいうさぎのほうが覚悟が必要ということなのですね。

さらに、「じゃ、わたし、これからさき、いつも あなたと いっしょにいるわ」としろいうさぎ。「いつもいつも、いつまでも?」とくろいうさぎ。「いつもいつも、いつまでも!」としろいうさぎ。しろいうさぎはやわらかな白い手をさしのべ、くろいうさぎはその手をそっと握った、と描かれています。

やはり、しろいうさぎが主導権を握っています。しかし、美しい場面です。信じられない幸福を確かめあう二人がうっとりしている場面として、確かに純愛の極致です。


群衆?結婚式に参加した動物たちとの距離感

結婚式の場面になります。他の小さなうさぎたちが二匹の幸せな様子を見に大勢やってきて、ダンスをおどり、森にすむ他の動物たちもいっしょにおどる、となっています。一見、非常に盛り上がる、楽しげな場面ですが、どこか他人事な印象を受けます。まず、うさぎたちは幸せな様子を見に、他の動物たちはダンスを見にやってきた、という、この違いは何なのでしょう。身内は祝い、他人は便乗ということでしょうか。多分、「おめでとう」などという具体的な言葉がなく、野次馬的な没個性の存在だから、ぼんやりとした印象になるのでしょう。しかし、ここは、二匹の結婚が、社会的に受け入れられたことを示す、大事な段階だといえるでしょう。


実を結ばない結婚

最後にようやく結婚です。一日中一緒にいて、楽しく暮らしたと語られています。しかし、ここで気づくのは、それでは結婚前と何も変わらないではないかということです。子供が生まれたという記述もありません。しかも、落ちは「もう、けっして、かなしそうなかおをしませんでした」です。もっとはっきりとした前向きな出来事がほしいところであり、ふわふわした結末で、物足りない感じがします。悲しくないのは当たり前じゃないと思うのですが。


全体の印象

これまで順を追って見てきましたが、全体に、おとなしく、静かで、悲しい感じが漂っています。前向きな感じ、能動的な感じがしません。どこか受け身です。やはり、結婚を願うのに悲しい顔をするというのは解せませんし、ただ願うだけなのは、物足りません。一体なぜこうした不思議な愛の物語が成立するのでしょうか。

結論を一言で言ってしまうと、「白」と「黒」という設定からも、一九五八年という出版年月日からも、アメリカの公民権運動の影響が思い浮かぶのです。おそらくこの当時、白人と黒人の平和的共存は、まだ夢だったのではないでしょうか。だから、くろいうさぎは悲しい顔をしてただ願うだけであり、しろいうさぎは主導権を握っているのではないでしょうか。

この読みをしてしまうと、話が一挙につまらなくなってしまうかもしれません。ですが、そう読むと、すべてがはっきりする気がします。この意味で、この作品は、ただのラブストーリーではないのです。
 それでは、以下の項では、公民権運動の経緯について少々調べたうえで、もう一度この作品を読み直してみたいと思います。


2.『ウサギの結婚式』としての本作―アメリカ公民権運動とのかかわり―

公民権運動とは、主に一九五四年から一九六八年の間のアメリカ合衆国南部における人種差別撤廃運動をさしますが、公民権運動の相手は、一八九〇年代にその成立をさかのぼる、南部諸州における黒人差別・分離の土壌でした。この土壌は、より正確には、一八九六年の「プレッシー対ファーガソン」裁判における最高裁判決で、公共交通機関における座席分離などの人種差別を正当化する、「分離はすれども平等」の原則としてのジム・クロウ法が成立したことによって決定づけられました。一言でいえば、このジム・クロウ法に基づく人種差別・分離主義に抗する動きが、いわゆる公民権運動なのです(対して、マルコムXを中心とする北部の人種差別撤廃運動は、ブラックパワー運動というらしい(註:参考文献2参照))。

この歴史的経緯の流れに、ガース・ウィリアムズの『ウサギの結婚式』の出版も位置付けることが可能です。ガース・ウィリアムズ自身は否定したようですが、一九五八年の出版当時、「白」と「黒」の結婚という言葉でイメージされるのは、人種統合の願いに他ならなかったのです。


アメリカ公民権運動の流れ

というわけで、ここでは、特に一九五八年前後の公民権運動の流れを見てみることにしましょう(註:全体としては参考文献1・2・4を参考にしているが、主に1・2に拠った)。

まず、一九五一年、カンザス州トピーカに住む黒人溶接工オリバー・ブラウンが、八歳の娘リンダのために、白人の通う小学校への編入届を出したことから起こった「ブラウン対トピーカ教育委員会」裁判がその嚆矢です。このときは、一九五四年に第一部、一九五五年に第二部の判決が下り、「公共の教育機関において「分離はすれども平等」という原則には根拠ないという結論を下す」という小さな一歩が踏み出されました。

 続く一九五五年のエメット・ティル殺害事件は、大きな反響を呼ぶことになりました。当時、南部諸州においては、黒人男性は、白人女性をじっと見つめることさえ許されませんでした。そんなことをしたら徹底的なリンチが行われてしまうのです。一九五五年、シカゴの十四歳のエメット・ティル少年が、訪れていたミシシッピデルタ地域で、キャロライン・ブライアントという既婚の白人女性を冗談でデートに誘い、その報復で無残に殺される事件が起きました。少年の無残な遺体の様子はマスコミによって大々的に広められ、殺害者は裁判にかけられました。被告であるキャロラインの夫とその兄弟には、ジム・クロウ流の慣例通りに無罪の判決が下されましたが、ティル少年の名が忘れ去られることはなく、その後の公民権運動の後押しになりました。

 一九五五年、有名なキング牧師主導による、バスボイコットが起きました。当時、地方では、白人の優位が圧倒的でしたが、新しい公共機関が出現した都市部では、ジム・クロウ法の適用はあいまいでした。そうした中、アラバマ州モンゴメリーで、バスの座席をめぐる争いが生じました。NAACP(全米黒人地位向上協会)の支部会員で、差別に対する批判意識の持ち主だった、デパートの裁縫師の黒人女性ローザ・パークスは、一九五五年、かつて自分を追い出したバスの運転手ジェイムズ・ブレイクのバスに再び遭遇し、白人に席を譲らなかったため逮捕され、NAACPの指示のもと、裁判となりました。対策を練るために黒人リーダー達が立ち上げたモンゴメリー改善協会(MIA)の代表になったマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師が支持・演説し、バスボイコットが行われました。このとき、黒人リーダー達が「不法な」ボイコットを指導したかどで、また、バス会社が黒人の乗客に差別的待遇をしたという理由で告訴されましたが、一九五六年、黒人側の勝訴に終わりました。

 バス路線における分離が撤廃されると、今度は公教育における差別が見直されることになりました。一九五七年、アーカンソー州リトルロックのセントラル高校で、十五歳のエリザベス・エクフォードという黒人の女子高生が最初に学校に行く日に、白人の群衆に学校から締め出されるという事件が起きました。リトルロックは差別撤廃に前向きな土地柄でしたが、新たに編入される黒人生徒が自分たちの子弟の脅威になると考えた白人差別主義者の恐怖が掻き立てられたのです。これに対し、アイゼンハワー大統領が連邦軍を派遣し、州兵を出動させたフォーバス知事から州兵を直接支配下に置き、一旦は騒ぎが収まりましたが、フォーバス知事が再選されると、すべての公立高校が閉鎖され、黒人生徒は行き場所がなくなりました。しかし、一九五九年、違憲であるとみなされ、連邦政府の意向に従って、人種統合がなされました。はじめての人種統合の実現でした。

 こうした公民権運動をめぐる激しい浮き沈みが一九五八年前後の政治的状況の中に確かに存在していたのです。

 その後も、一九六〇年のノースカロライナ州グリーンズボロの四人の黒人学生たちの抗議で始まったシット・イン運動(ランチカウンターでの人種隔離への抗議運動)、一九六一年のアラバマでのフリーダム・ライド運動(州間運行バスの人種統合実現を目指す運動)などで、公共施設での差別撤廃は進み、一九六二年のジェームズ・メレディスという黒人空軍退役軍人のミシシッピ大学入学問題を端緒に起きたオクスフォード事件で、大学でも人種統合は実現しました。一九六三年に黒人指導者メドガー・エヴァーズが暗殺されると、バーミングハムでは、SCLC(南部キリスト教指導者会議)がキング牧師主導の下でデモ行進を行いました。最終的には警察と消防によって鎮圧されましたが、不起訴に終わりました。続くワシントン大行進では、キング牧師の「I Have a Dream」の歴史的名演説で公民権運動は頂点に達しました。その矢先にバーミングハムのバプテスト教会が爆破され、聖歌隊の衣装に着替えようとしていた四人の黒人女子生徒たちが殺害されただけでなく、ジョン・F・ケネディ大統領が暗殺され、一旦運動は挫折したように思われましたが、一年後に待望の公民権法案がなんとか通りました。また、その後、ミシシッピでKKKが復活し、三人の公民権活動家殺害事件が起きると、一九六七年の判決で、初めてKKKメンバーに有罪が言い渡されました。一九六五年にはマルコムXが暗殺されましたが、アラバマ州セルマでは、SNCC(学生非暴力調整委員会)のリーダーが狙撃で死亡すると、抗議の行進が行われました。警官たちが平和に行進をしてきた抗議者たちを棍棒で殴打し、催涙ガスを浴びせかけ、百人の負傷者が出た、いわゆる血の日曜日事件でした。続くキング牧師主導の非暴力のデモ行進で白人牧師が殺害されると、ジョンソン大統領の起草していた投票法案の提出を求める声は大きくなり、一九六五年、黒人の登録の権利、投票の権利を保障する投票権法案は可決されました。公民権運動の最終的な勝利でした。公民権運動は、一九六八年のキング牧師暗殺によって、一応の区切りとみなされることになります。

 以上のような流れです。すさまじい歴史的政治的怒涛の時代だったといえるでしょう。今の平和ボケした日本の私たちだと、あまりの違いにショックを受けるのではないでしょうか。ですが、まさにこういう時期が存在したのです。私たちはその事実に目を覆ってはいけないのではないでしょうか。


『ウサギの結婚式』再読

 その上で『ウサギの結婚式』を読み直してみましょう。当時、黒人男性は、白人女性をじっと見つめることすら許されていなかったといいます。ある資料によると(註:参考文献3参照)、一九六八年段階で、十六の州で白人と黒人の結婚は、憲法または法律で禁じられており、たとえば、アラバマ州では、「白人と黒人(黒人の三代目の子孫まで含む)が生活を共にして情交をなしたる場合、その各々を州刑務所での二年以上七年以下の懲役に処す」となっていたそうです。

だから、くろいうさぎは、あえて結婚してと声高に言えずに、悲しそうな顔で見つめるだけなのでしょう。また、しろいうさぎがなんとなく高飛車にみえるのも、仕方がないのでしょう。二匹のウサギの結婚は、当時にあっては、とても考えられないことでした。ただ願うだけ、それも、結婚などと直接的にいうよりも、ただ一緒にいたいと思うということがせめてもの現実的な目標だったのです。せめて周りの動物たちに祝ってもらえたというところが救いでしょうか。社会的に認知されたということですから。

しかし、この作品では、実際に結婚が口にされ、実に美しいプロポーズと承諾の場面が描かれています。これは、崇高な理想の具象化であり、作者ガース・ウィリアムズのような進歩的な人たちが、高邁な精神の持ち主であったことの証左でもあるのです。

私は、この作品は、ガース・ウィリアムズをはじめとした、当時の人たちの血と涙がつまっている、切実な思いの結晶なのだと思います。実に尊い話です。そして、そう言った目で見てみると、本当に身につまされる思いで、心からの感動を覚えながら読まざるをえません。とても単純なラブストーリーと割り切ってしまうことはできません。

 ただし、ある資料によると(参考文献5参照)、『ウサギの結婚式』出版当時は、本作が異人種間結婚のプロパガンダであると世界的論争が起き、南部の図書館から撤去されるという事態が生じ、先にも述べたように、ガース・ウィリアムズ自身は、宣伝効果は歓迎しつつ、内容的にはそのコノテーションを否定していたようです。

 私は、やはりこの作品も、一旦作者の手を離れた文学作品である以上、必要以上に出版当時の文脈において読まなければならないということはないと思います。その意味で、作者の願う通り、「黒」と「白」にこだわる必要はないのだと思います。ただ、言っておかなければならないのは、知っておいたほうがいいこともあるということです。単純なラブストーリー以上のものであると思えたほうがより多角的かつ深く楽しめるし、アメリカの公民権運動という重要な歴史的運動について知っておくことは、人道的にかなり重要なことでもあるからです。

少なくとも私は、この本のおかげでそのことに気づくことができました。まさかそんなコノテーションがあるとは、この本について今回調べてみるまでつゆ知りませんでした。その意味でも、この本とこの機会に感謝しています。また、この本がただのラブストーリー以上のものであると気づかせてくれた、ネット上の何人かの読者の方たちにも感謝をささげたいと思います。


3.結語:『しろいうさぎとくろいうさぎ』の示唆するところ

第二節でみた通り、この作品には、公民権運動という歴史的背景が存在していたことが分かりました。だからこそ、二匹の結婚は夢として描かれ、白が少し尊大で、黒は悲しそうな顔をすると読めます。

 それでは、公民権運動とはほとんど縁のない(と言い切ることも実は問題かもしれませんが)二十一世紀の日本の読者である私たちがこの本を今現在、読む価値はどこにあるのでしょうか。

一見純愛物語であるこの本も、よく読むと不思議な印象を受けるのですが、読者である子供たちは、それはそれで自分の物語として受け止めるのではないでしょうか。心に引っかかるのが大事だと思われます。恋愛や結婚、パパとママの関係について考えるきっかけになるのではないでしょうか。

ただ、この本は、むしろ大人に向いているといえます。願いとしての「結婚」。夢としての「結婚」。そもそも、結婚とは一緒にいられることをともに願い、一緒に暮らせることを心から楽しむということではなかったでしょうか。子供が介在しなくても、夫婦が共にあることが、第一の結婚の意義である、とこの本は説いている気がします。

その意味で、夫婦の絆が風化しかけたときに読み返せば、大事なことを思い出させてくれる絵本ではないでしょうか。また、結婚を超えて、異なる人々が一緒にあることの大切さを思い出させくれる絵本でもあります。男女間の純愛物語であると同時に、人間愛に満ちた作品でもあるのです。

このように、この『しろいうさぎとくろいうさぎ』は、公民権運動という社会的背景を匂わせながらも、結婚、他者との共存の意義について意識改革させてくれる楔の役割を果たす作品です。名作とはこうした異化作用を及ぼすものと定義できるなら、まさに名作中の名作といえます。つまり、心にどこかとっかかりを残すことがすなわち名作の条件だとしたら、とっかかりだらけのこの作品は、他に類を見ない名作といえるのです。

また、もう一つの大切な性格についても述べておきましょう。「願えばかなう!共存の夢」とでもまとめられる性格についてです。この作品は、ただ悲しそうな顔をするだけでなく、作中でくろいうさぎが強く願ってかなえたように、「願えばかなうんだ!希望を持とう!」という強いメッセージを発している、力強い本でもあるのです。しかも、他者との共存という極めて困難な理想を掲げて。そんな意味で、純愛という以上に勇気を与えてくれる本なのです。

どんな困難があってもだれかと一緒にいたいと願うとき、この本を読み返して、勇気をもらいたいものです。それが結婚であっても、その他の関係であっても。そして、愛と希望をもって一歩を踏み出したいと思います。私は、その意味で、この愛らしい挿絵の絵本を、ただ愛らしいだけでなく、惜しみない人間愛と希望を湛えた作品として、尊敬と愛情を込めたまなざしで見つめたいと思います。この本を選んで、本当によかったと思います。今後も大切に読み味わっていきたいですね。


参考文献

1)ジェームス・M・バーダマン著、水谷八也訳『黒人差別とアメリカ公民権運動』集英社、二〇〇七年

2)ジェームス・M・バーダマン著、森本豊富訳『アメリカ黒人の歴史』NHK出版、二〇一一年

3)大谷康夫著『アメリカの黒人と公民権法の歴史』明石書店、二〇〇二年、一四一頁―一四三頁

4)上杉忍『アメリカ黒人の歴史:奴隷貿易からオバマ大統領まで』中央公論新社、二〇一三年

5)『永遠の物語:大草原の小さな家:ガース・ウィリアムズ絵本の世界』ブックグローブ社、二〇〇二年 

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