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亀と藤沢と逗子を巡る対談【千返万歌〈第7回 〉】

 上原・若洲が返歌に挑戦! 一方の頭にふと浮かんだ短歌から、返歌の世界が始まります。そしてさらに、2首の世界から思い浮かんだことをノールールで綴る企画です。第7回は上原発・若洲着。文章は今回初の対談形式です。

千返万歌

本歌
強いとか生命力があるだとか褒められながら捨てられる亀 上原温泉

↓ ↓ ↓

返歌
藤沢に流れ着きたり逗子にあらず再び姉に拾はれむことを  若洲至

*メモ✍
 「藤沢」:神奈川県藤沢市のこと、江ノ島があることで有名な「湘南」の一角をなす都市
 「逗子ずし」:神奈川県逗子市のこと、逗子海岸がある
 「拾はれことを」:「拾われるようなことを(期待している気持ちを込めて)」という意味

イシガメ(イメージ)

文章編:亀と藤沢と逗子を巡る対談

一.歌の制作背景

上原

 最近、私自身が人から言われた言葉が元になった歌です。何度かお会いした方から、しみじみと、それもお会いするたびに「上原さんには生命力がありますよね~」と言われまして。

 一般的に「私って強いから!」と言い出す人はあまりいなくて、逆に「私って弱いから……」は、人によっては言いますよね。昔、私も自分のことを弱いと思っていたので、ある時ポロッとそれを口に出したら、私をよく知る友人に「ええぇっ!」ってブーイングされ、逆にびっくりしてしまうことがあったんですよ。そんな古いやり取りを思い出したりもして。

 で、自分は弱いつもりマンマンなのに、人からは全くそのように思われていないという、認識のギャップのヒドさが(笑)なんか面白いな、と思ったのが制作の一応の背景です。個人的過ぎる話で恐縮なんですけど。

若洲

 いや、でも、感覚を共有できる方は沢山いらっしゃるんじゃないかな。
 
 ちょっと状況違いますけど、例えば学校で、おちゃらけてる子が先生にめっちゃ目を配られている中、ある程度自立できている子は相手にもしてもらえないというか、むしろ先生サイドに回らされる役回りになってしまう、みたいなことあるなっていう風に思ってて。例えばそういう境遇にある人なら、この亀にイメージを重ねて共感してくれるだろうなと思いました。

 亀にはこう……おざなりにされる人、私は男性かなと思いましたが、そんな人の姿が重なりました。それでこの亀、放された後どうなってしまうのだろう? という発想から浮かんだのが、逗子と藤沢だったんです。

 藤沢・江ノ島方面のテンションと、逗子方面のテンションの違いってあるじゃないですか。この亀の悲哀に似合うのは、絶対、逗子方面だと思うんですよね。それが逆に藤沢へ、ノリの全く違う方向へ流されてしまう。どこまでも報われない亀、ということになってしまった感じです。

逗子方面にある一色海岸(神奈川県葉山町)

上原

 「藤沢」といえば江ノ島が近く、その先には大磯ロングビーチもありますし、華やかですよね。で、逗子方面へ行くと、先には葉山、佐島があって、落ち着いた雰囲気が私はむしろ好きですけど、対照的な雰囲気になってくる。

大磯ロングビーチ(神奈川県大磯町)

若洲

 逗子っていう言葉自体が逗留とうりゅうの「逗」に「子」ども。地名にもちょっと寂しい感じがありますよね。うら寂しく落ち着きたかったのに、そちらには流れつかなかったという。

とう-りゅう【逗留】
〘名〙
1️⃣一か所にとどまって進まないこと。停滞すること。
2️⃣旅先に一定期日とどまること。一時的に他の場所に滞在すること。滞留。

精選版 日本国語大辞典(小学館、2006)

二.安寿と厨子王

上原

 「逗子ズシ」の言葉の響きから私が思い出したのは、「安寿あんじゅ厨子王ずしおう」という、姉と弟の悲しいお話です。幼い頃、子ども向けに書き直された絵本を、親が買ってきてくれたのでしょうね、気に入って、繰り返し読んでいました。

若洲

 どんなお話ですか?

安寿と厨子王
「山椒大夫」伝説に登場する姉と弟。太夫に買われた2人は酷使され,ついに姉はわが身を殺して弟を逃がす。やがて出世した弟は太夫を殺して姉の仇を報じ,父母にも再会する。
(後略)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目電子辞書版(Britannica Japan Co., Ltd、2016)

上原

 元は『さんせう太夫』という説教節(中世に生まれ近世に流行った語り物の芸)の演目 です。森鷗外の小説『山椒大夫』の原作でもあります。当時はそういう細かいことを全然知らずに読んでいましたが。いちおうはハッピーエンドなんですけど、過程がもうね……特に、弟を逃がすために姉が命を落とすくだりは子供心に刺さりました。

 その頃は、世界の民話や昔話を読み漁っていたんですよね。あと童話も。グリム童話とか。今とは異なる厳しい時代背景があるから、特に家族にまつわる悲劇的なストーリーは少なくなかったけれど、疎むよりもそれに感情移入する子どもでした。読むときは、命をかけて弟を守る姉のつもりになって、みたいなね。

若洲

 家族の中の悲劇を、その立場で読まれていたんですね。

上原

 しかも、誰もが家のために生きた昔は、兄弟姉妹の関係性も今とはかなり違いますよね。絆の中心に家制度があることが、その絆をより強固なものにしたでしょうし。私には兄弟姉妹がいないせいか、兄弟姉妹の話には思い入れが深いです。若洲さんの歌にある「流れ着く」「逗子」「姉」「拾はれむ」などの詩情を含む言葉は、自分の幼心に刻まれた安寿と厨子王のイメージを喚起してあまりあるのですよね。

三.若洲の自主吟行

若洲

 数年前の冬なんですが、俳句に詠み込むお題の、海にまつわるものを理解してから詠むために、由比ヶ浜から逗子海岸まで歩いて吟行ぎんこうしたことがあるんです。さっき言った、地域によるテンションの違いは、そこで初めて理解しました。

歩行ルート(概略)

上原

 国道134号線沿いですね! 結構な距離ですよね?

若洲

 調べたら6キロメートル越えてましたね。長谷駅で降りて由比ヶ浜・材木座海岸、小坪海岸トンネルで市境を越えてマリーナのある小坪漁港、その後、道がなくなるんですが、披露山を登ってから住宅地を下り、逗子海岸までたどり着きました。15時くらいから決行したので、着いた頃には日が暮れました(笑)。当然、今よりは若いわけですが、それにしても俳句を詠むためだけに、冬の海岸線を歩き通すのは、なかなかのバイタリティだったなと自分でも思います。

上原

 それもうショートトリップですよ。人によっては1泊ないしは2泊するレベルの。

若洲

 結構きつかったと思います。でも、その時の冬の午後の小坪漁港の寂しさがすごく印象的だったんですよ。

上原

 私も、冬の葉山が好きで行くことがありますが、やっぱり寂しいですよね。人がいない海って。でもそれがいいんですよね。

四.小坪とトンネル

若洲

 そういえば、そのあたりを舞台にした小説を読んだことがありました。浅田次郎の短編『夕暮れ隧道』(『霞町物語』講談社文庫所収)です。

 登場するのは大学生の男女で、ドライブデートでこの鎌倉・逗子あたりによく来る人達という設定なんですが、その中に出てくる「小坪トンネル」がキーになっていて、怪談話の舞台として扱われるんです。だから潜在的にはその小説を読んだ時の気分が再現されるような不気味さというか、そんなものも影響していたかもしれないなと思いました。あまり好みではなかった小説なんですが、印象には残っていて。

上原

 そう好きでもなかったのはなぜなんですか?

若洲

 浅田次郎の男女関係の描き方が、妙に生生しく感じられてしまって苦手だったんです。もともと、男性作家による「そういう」描写が得意じゃないんです。「そういう」シーンがあると、苦手意識が先に立ち、受け付けなくなってしまうことが結構ありまして。多くの人が好むようなベストセラー作品でも、ダメなときはダメで。あとなんだったかな、渡辺……

上原

 渡辺淳一ですね。若洲さんは「食えないオヤジ」が好きじゃないのでしょうね。確かに渡辺淳一の小説は何本も映画化されて映画もヒットしていた時期があるけれど、私もはまらなかったなー。

 聞いていて感じたんですけど、苦手なポイントは一緒なのかなって思いました。私は別に男性作家の「そういう」描写を読んで敬遠するほど繊細ではないですけど、「そういう」の部分に出現する、ある種の男性性は、苦手かも。好きな男性性というのもあるとは思うし、今の時代、「男性性」を云々すること自体、慎重であらねばならないので、言い方が難しいですが。

五.兄弟姉妹観

上原

 安寿と厨子王まで話をちょっと戻しますけど、若洲さんの歌は、「実はこんな感じの経験から、この歌の方向が定まりました」っていう段階がまずあって、次に、上原の歌に対する読み手として、違う角度の個人的なみ取り方をして、返歌が完成していくところが良いですよね。

 やはり何より「姉」という設定がいい。父とか母じゃつまんないし、全く違う名詞を入れると違う話になってしまう気がするし。姉の距離感で描いた歌の中の世界は、私の中ではしっくり来ています。

若洲

 自分も一人っ子なので、姉には憧れがありますね。

上原

 私も幼い頃は、お兄ちゃんが欲しいって思っていました。似てるのかな。

若洲

 似てると思います。「姉」は、「そういう描写」が感じさせるような、自分が苦手なものに対して、「安全圏」に居てくれる気がするんですよ。まぁサブカルチャーの中では、そうではないかもしれないので、あくまでの私が抱くイメージとして。

上原

 言いたいことはわかります。姉に対する思いって、母に抱く感情ともまた違う。母の場合は、その体の中から自分が出てきちゃってますからね、たとえ記憶にはなくてもね。産道を通ってきてしまった子と母の間には、どうしても肉感あるから。それが姉だと距離感がいい具合になって、だからこの歌は姉で良いのだと思いました。それから「姉に拾はれむことを」は素敵なフレーズですね。だってそもそも姉との間には、拾い拾われる関係性がないから。だからそこに詩があって、素敵だなって。

六.まとめ

若洲

 ありがとうございます。私はもともと『安寿と厨子王』を知りませんでしたので、それを前提として作ってないわけです。でもそれを知ってしまうと、この歌の読み解きには、当然のように安寿と厨子王の世界観が必要に感じられる。今となっては、なぜ自分が「再び姉に拾はれむことを」って書いたのか、わからなかったんですよ。そこに新たな世界観を加えることで、自分の歌が広がりました。

上原

 今回は、これが千返万歌の醍醐味なのかなってつくづく思いました。2つの歌を並べたからこそ、よかった。

若洲

 そうですね。私は自分の歌には正直自信がなかったんですが、2首並べると流れが出来るので、嬉しいですね。


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