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2023年8月の記録【ゼロから始める短歌記録〈Vol.4 〉】

 上原温泉です。当月に追いついた短歌記録Vol.4、ゑひの活動としては5ヶ月めに入りました。最近困っているのが、俳句とその執筆を主としたユニットのため、頭の切り換えが必要な短歌の創作が滞ってしまうこと。両方やっている方々の凄さが身に沁みております。私にそれができるのだろうか……弱気を奮い立たせ、では本題へ入りましょう。


短歌にしきれない

おかあさん目がとれちゃったおかあさん耳がとれちゃったおかあさんの匂い  上原温泉

 はじめは「おかあさん目がとれちゃったおかあさん耳がとれちゃったおかあさんおかあさんおかあさんの匂い」でした。いくら俳句のような縛りは無いといってもさすがにこれではと「おかあさんおかあさん」を外し、「でも」「また」「嗚呼」とか入れてみたのですけど何だかなぁで、最終的には無しにして、それでもやはり何だかなぁではあります。ゑひの短歌会議に掛けましたところ、案の定、ボツ。若洲至の判断は「これは詩にしたほうがよい」と。なるほど。

「リボン」 上原温泉

おかあさん足がとれちゃった
おかあさん腕がとれちゃった
おかあさん頭がとれちゃった

さあ塗りなさいと言われた君が
赤く縁取る女の子のリボン
赤く塗り潰さなかった女の子のリボン

とれちゃった頭から口がとれちゃった
とれちゃった頭から目がとれちゃった
とれちゃった頭から耳がとれちゃった

おかあさん探して
おかあさん見つけて
おかあさんおかあさんおかあさんの匂い

 というわけで、詩にしてしまいました。何をやっているのだか。時間があればゑひで詩作の連載も検討したいところですが、現状それどころではないので(大汗)こちらに記すに留めておきます。母恋のモチーフは、母を知るもの、知らないもの、捨てるもの、探すもの、屈折の仕方はそれぞれですが、いずれからも母を呼ぶ「声」が伝わってくるようには感じるので、呼びかける形になったのだと自解しています。

母恋の詩を巡って

母を知らねば美しきいなびかり  友岡子郷

 友岡子郷ともおかしきょう (1934-2022) は、兵庫県神戸市灘区出身の俳人で、小学生の時に終戦、戦後まもなく母を失いました。1995年には阪神・淡路大震災によって家屋が半壊、翌1996年発行の句集『翌あくるひ』に、震災を詠んだ名句として人口に膾炙される「倒・裂・破・崩・礫の街寒雀」があります。晩年は兵庫県明石市に移り住み、句集『海の音』で第52回蛇笏賞を受賞。掲句は最後となったその句集に収められています。年齢を感じさせないしなやかな作風を言われた俳人で、残念ながらお目にかかったことがないのですが、蛇笏賞の受賞の言葉に、その人柄や在り方がよく現れているので抜粋してご紹介します。

(前略)
 私は自身が生来のマイナー・ポエットであることを恥じたことはありません。むしろそうでありたいと願って来ました。私は学童疎開の世代、戦後騒がしい軍部の怒声から解放されて、やっと心和むひとときを与えてくれたのが、立原道造、中原中也、中勘助の『銀の匙』などの詩文でした。
 大学に入って長谷川素逝の句集『ふるさと』を読んで、自分も句づくりをと思い立ちました。当初はでたらめで身勝手でした。
 至りついたのは、今は亡き飯田龍太先生で、二十五年間休まずにその選句を受けました。その選句を通じて、本物の俳句・俳人らしきを学ばせて頂きました。
(後略)

公益財団法人角川文化振興財団HPの記事より抜粋

 『海の音』は、タイトルにもあるとおりの穏やかな海のよう、きらきらと光を反射させてはいるけれど、誰も見ることのないその底には、深い慟哭や哀しみが漂っているような句集でした。人生において幾たびも重ねた喪失と破壊の体験を直には吐き出さず、濾過を重ねた末に残った詩情はどこまでも軽やか。長々と友岡子郷についてご紹介したのには理由があって。

 いったん、話は変わります。数年前、とある俳人の大先達から唐突な郵便物が届きました。中には3冊の歌集が入っておりました。ひととおり目を通し、どれもがとても良い歌集だと思い、後日先達にお礼のみ申し上げました。それが何を意味していて、何をすればよいのか、何をしてはいけないのか、一切の指示はなく、ないだけに、意味を感じてしまってむしろ聞けず。俳句ができなくて、俳句のことばかり考えて、死にもの狂いだった頃の出来事です。

 ゑひで短歌を作り始めることになった時、歌集や教材のようなものをほとんど持っていなかったので、私室の本棚の、どちらかといえば隅っこの方に置いてあったその3冊の歌集が改めて目に入りました。その中の2冊が、杉崎恒夫という人の歌集『食卓の音楽』と『パン屋のパンセ』でした。という人、と表現するのは短歌を知らなさ過ぎた上原の不明によります。

 再読までの数年のブランクに、俳句の経験が少し乗っかったので、今回はまず連想したのが、先述の友岡子郷の俳句です。漂うものがどことなく似ていると思いました。「年齢を感じさせないしなやかな作風」は、杉崎恒夫作品の特徴でもあります。

 この夕べ抱えてかえる温かいパンはわたしの母かもしれない  杉崎恒夫

 わたくしのおおマイゴッドは「おかぁさん」せっぱつまったときの呼びかけ  杉崎恒夫

 息子である杉崎明夫氏によれば、杉崎恒夫 (1919-2009) は静岡県熱海市生まれ。幼い頃に母と死別、青年期に父と死別、学生時代に肺結核となり学業を断念してサナトリウムで療養、戦後すぐに結婚した妻と死別、後に再婚。終戦後より1984年まで、東京都の三鷹にある東京天文台(現・国立天文台)に勤務。晩年は埼玉県の南部で家族に囲まれ暮らしたそうです。

 父の人となりは、滅私奉公的な考えが強くて子供達には自分の過去などはほとんど語らなかった。自分のことはさておき疲れるほど人の気遣いばかりするような性格であった。息子から見れば、もっと自分に威厳をもてよと生前は思っていた。しかし、この歌集を俯瞰すると若いころの苦労や生活の匂いがする歌が少ない。ひょうひょうと死のことを歌ったり、物事を達観して詠ったり、悲しみをウィットに包んで笑いとばしたりしている。そのような訳で、この頃は心の奥に秘めた芯の強さを感じている。

杉崎明夫『パン屋のパンセ』発刊に寄せて より

 本来ならば、作者のプロフィールには重きを置き過ぎず、作品をまっさらな気持ちで読みたいほうです。しかし2人の作家のバックグラウンドには大きく共通するものを感じざるを得ませんでした。作品のすべてをその文脈で読もうとは思わないですが、この連載は短歌シロウトの上原温泉が、自身の作風を確立できるかどうか、その迷走を記すのが目的につき、目的に資する作者の実人生と作品の連動には目を向けたい。

 友の訃ははるけき昨日きんぽうげ 友岡子郷

 矢印にみちびかれゆく夜のみち死んだ友とのおかしなゲーム  杉崎恒夫

詩への人生投影

 つまり、人それぞれに不遇があったとして、私はそれを詠むのか、どこまで詠むのか、という自問です。あるべきのものが無かったり、あったはずのものをなくしたり、欲しい何かがどうしても手に入らないとき、その欠落を埋める手段として創作を選んだ人は一定いると思いますし、上原はそのタイプです。しかしゑひの各所で触れておりますように、私のいる俳句環境においては、いかに淡々と実景を掴みとるか、みたいな訓練をしてきたために、表現として自身の内面に踏み込むことが、今では怖いのですね。短歌にもさまざまな作り方があるのだろうとは思いますが、俳句で得てしまったその体質が影響し、腰の座りが誠に悪い、というよりも、どこに座ればよいのかがわからないのです。杉崎恒夫の短歌は、今回は主に母恋をテーマにしたものを抽出しましたが、もちろんそれだけではありません。平明な哀しみは魅力のひとつ、それ以上の洒脱さや、明るい闇のような境地は、自分がこれから目指したい方向のようにも思えました。

 それでこの歌集を送ってくださった大先達、もう一度言いますが、俳人です。私に何を伝えたかったのだろうか。まさか短歌をやったらとは言えなくて(俳句社会的にはミスリードなので(笑))、道標のような歌集にメッセージを込めて送ってくださったとか? 真意は今だに謎ですが、短歌を作るようになった今の私が、その3冊の歌集に導かれる気がするのは確かです。ちなみに3冊めは、鳥居『キリンの子』でした。組み合わせのギャップ、あり過ぎなんですけど。

 鳥居作品についてはいずれ触れたいと考えていますが、次回は、紹介しきれなかった杉崎恒夫の作品群の続きを。上原自身も頑張って短歌作ります。ではまたお会いしましょう。

 緑児は睫毛せっせと伸ばしているこの世は空気あれは夏だよ          上原温泉


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