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アンソニーのメッセージなど【月刊 俳句ゑひ 水無月(6月)号 『無題3』を読む〈後編〉】

 こちらの記事は、月刊 俳句ゑひ 水無月(6月)号の『無題3』(作:若洲至)を、上原温泉が鑑賞したものです。まずは下の本編、及び〈前編〉をご覧ください!


アンソニーのメッセージなど

父の日、それだけ

思つてゐたよりも父の日晴れてをり

 「父の日」は、母の日の注目度に比すれば影の薄い季語で、俳句の内容も、父の華々しさよりは哀愁に傾くものが多い。その父の日が晴れた。晴れると思っていたとかいなかったとか、そんなところに感情が向くのも、さほど特別な出来事が無く、日常に近い休日だからだろう。何も起きないが、晴れている。父の日はそれで十分と、父も思っている。たぶん。

” 心外 ”なおもしろさ

白靴のまま厚木まで来てしまふ

 句に地名を入れがちなゑひのメンバー、今回は厚木。神奈川県の内陸部にあり、財政力指数が神奈川県内の市で1位、関東地方で5位、全国で10位と、けっこうお金持ってる市である。新宿へ向かう多くの小田急小田原線(各駅停車)の始発駅でもあることから、筆者には、“ 目的地 ”より、“ 出発地 ”のイメージがある。そんな厚木まで「来てしまふ」という言いぶりの、何やら心外そうなところや、一見句意をはかりかねるところが興味深くて取り上げた。

 かつて「白靴」は大人の男性のお洒落だった。麻のスーツに白い革靴といった出で立ちの紳士は、回顧的な映画などに見受けられるが、今や実写は滅多にお目にかかれなくなってしまった。現代の白靴は、カジュアルなスニーカーなども含んで詠まれている印象があり、どのようなタイプの靴であるのかが、昔と今では少しズレてしまったから、筆者が白靴という季語を使う場合は、手入れをしないとすぐに汚れてしまう白を「保つこと」、逆に「保てないこと」、そんな質感の部分や白さへのこだわりに意識を向けるようにしている。

 都会では、アスファルト舗装の道だけを歩き、一切の土に触れずに1日を過ごすことも可能だから、安心して白靴を履いていられる。そんな靴を履いて新宿から小田急線に乗り、厚木駅で下車するまでなら、まぁさほど支障は無い。ただその先には、登山口やハイキングコース、温泉もあるし、南下すれば湘南の海だ。豊かな自然の入口に立ち、“ 大丈夫なんだけれども、汚れやすい白靴があんまり似つかわしくはない ” みたいな感覚を覚えるギリギリのラインが厚木ということでもよいかもしれない。作者の若洲は地理に明るいので、地理的な知識を前提とした句が多く、だからそんなふうに考えてみたけれども、実際のところはよくわからない。尋ねても「読者に委ねます」とかクールに言われそうだし、ここはひとまず、作中主体の “心外な感じ” を味わうだけで満足しておくことにする。ある意味、わからなかったから面白かった。

「隣家」ふたたび

隣家にその人をらず青簾

 隣家に見覚えがあると思ったら、俳句ゑひ卯月(4月)号に「隣家にムスカリのある寒さかな」という句があった。当時は不気味な隣人を想像して軽く戦慄したものだが、今回は留守らしい。簾には青くないものもあるし、個人的には青くないほうが見かける頻度は高いので(上原調べ)、続編のように読めば、青簾はまた怖い。

 青いということは、編んで間もないということ。季節のしつらえに敏感な、丁寧に暮らす家主が思われる。涼しげで夏らしくて風流な句に、青簾はよく似合う。

 それが不在だからといって、何の不自然さも無いはずなのだけれど、掲句は「言い方~」で成功した。眼目は「その人」でしょう。細かく見れば「その」でしょう。その人って、どの人? と、読者は必ず考えることになるから。それで筆者は4月号の隣家の人物を思い出すことになったが、そんなふうに関連付けなくても、この指定された人については、わざわざ指定されたわりには、留守であること以外、何一つ情報がない。顔の見えない人間が隣家にはいて、それが今はいなくて、青い簾の瑞々しさがその存在感だけをやけに伝えてくるのって、怖くないですか?

溢れ出してはいけない

憑いていく好きな渋谷の香水に

 これはもう何を置いても「憑いていく」が目を引くだろう。

物思へば沢の螢も我が身よりあくがれ出づるたまかとぞ見る
                  和泉式部

そんな感じでしょうか。「憑く」という動詞は強烈なので、「好き」を重ねると、俳句的には「言語重複感」を指摘されるかもしれない。俳句における言語重複とは、表現の意図するところの重なりが、暑苦しくてお腹がいっぱい、というような意味で、常はあんまり好まれない。

 これは恋の句と思う。2人で渋谷の雑踏をかき分けながら歩く姿が浮かぶ。1人はすたすたと先を急ぎ、もう1人ははぐれまいと後を追う。混雑で姿を見失っては、好きな人の香水の香りを辿る。憑いて行くのは行動からの吐露、好きな渋谷の香水は直球の吐露、両方言わねば足りない恋。作者にしてみれば言語重複上等。止めることはできそうにない。

 俳句で恋を詠む難しさを考える。溢れ出すのが恋情なのに、俳句は溢れるなと言われる。技量があればその両立は可能なのだろうが、そこそこの腕前であっても恋は詠みたい。が、うまくいかない。いつのまにか筆者は恋の句を作らなくなってしまった。憑きものが落ちて俳句は作りやすくなったが、それもなんだか微妙に問題ではある。

アンソニーのメッセージ

迷ひなく歩く白夜のアンソニー

 今月号の若洲連作中、絶対評価でいちばん好きな句だった。本当は好きな理由にさしたる理屈は無く、「白夜のアンソニー」の響きと設定を私的に気に入ったのと、唐突な描写の出現にウケてしまったというのが実際なのだけれど、それでは鑑賞にならないので以下、理屈を付けていくことにしよう。

 アンソニーは英語圏の人名で、ローマの氏族の名前であるラテン語の「Antonius」(アントニウス)を起源としている。イタリアやスペイン語圏ではアントニオ、ドイツ語圏ではアントニー、フランス語圏ではアントワーヌ、ロシア語圏ではアントンなどに変化するが、元は同じ。欧米の、特にキリスト教世界では子どもが生まれると、聖人の名前から選んで命名されることが多く、名付けのバリエーションが少ないこともあって、やはり聖人アントニウスの名から採られたアンソニーは非常にポピュラーな名前だ。つまり無個性。ゆえに名の出自が先に立つ。彼はキリスト教系・英語圏の人物。わかったのはそれだけである。

 白夜といえば、ノルウェー、フィンランド、スウェーデン、アイスランドなどの北欧諸国が真っ先に浮かぶ。それぞれに母国語はあるが、英語能力も非常に高いと聞く。スウェーデン語・デンマーク語・ノルウェー語・アイスランド語は北ゲルマン系、英語は西ゲルマン系言語に属し、言語系統が近く文法や単語が似ていることから、北欧人は英語の習得がたやすい。英語圏の人であるアンソニーが移住者と旅行者のどちらであっても、白夜の国を迷いなく歩くためには、その言語系統の近さによって言葉の壁を乗り越えられることが現実的には大きい。明るいから、歩きやすいですしね。

 次に、名の由来になった聖人を切り口にして考えてみる。聖人アントニウスはエジプト生まれ。生涯に渡っての苦行者であり、修道僧の教育者・修道院の父であり、難治性の丹毒やペストの治療者でありといった大聖人で、キリスト教芸術における代表的主題でもある。荒野での修行中、悪魔が繰り出す誘惑に悩まされながら、それらに打ち勝とうとする光景は、絵画「聖アントニウスの誘惑」としてご覧になったことがある方もいらっしゃるのではないか。「迷ひなく歩く」は、そのような背景を負う名であるアンソニーと考えれば、やはりいかにも相応しい。

 そして英語圏の人について。アンソニーといえば筆者が思う筆頭は、イギリスはウェールズ地方出身の俳優であるアンソニー・ホプキンズなので、掲句のアンソニーも英国人を想定した。本題から少し外れるが、英国人気質の地域別解説として面白かったサイトは、山田翻訳事務所さんのHPから、こちら。

 細かく分ければ地域により個人により違うのが気質だと断った上で、それでもお国柄のイメージというのはあるし、そこに英語圏の優位性も加味されると、とりわけ英国人の自意識は、たとえ白夜のアウェイに居るからといって揺らぐほどヤワではないだろう。「迷ひなく歩く」に、何者なのかは明らかにされずとも、明快なアイデンティティを持つ英国人アンソニーの像を矛盾無く結ぶことはできる。

 ところで、ゑひの短歌連載「千返万歌」の第6回は、こんな歌のやりとりだった。

本歌
この先もパリには住めずスティングの歌が流れて最後のお訴え 上原温泉

↓ ↓ ↓

返歌
大理石文明にある鵲は知るや亜洲の遠き血筋を         若洲至

若洲訪欧記(一部)【千返万歌〈第6回〉】より


 ちょうどその頃、統一地方選挙期間中で街宣がかしましく、「最後のお訴え」から想起した歌ができた。スティングの歌というのは、ニューヨークに暮らすイギリス人の想いを歌った『Englishman in New York』。この歌の主題は、歌詞の一節、「Be yourself no matter what they say.」(誰が何と言おうと 自分らしくあれ)に尽きる。

 若洲は、千返万歌の短歌に、訪欧旅行記を添えた。今回取り上げたアンソニーの句は、旅を経た作者からの、2通めのメッセージのようでもある。

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