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短篇小説【生まれ、変わる】

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「ねぇ、私達、友達としてやり直してみない?」
そう言ってきたのは、5年前に離婚した元夫のお義母さんだった。
ちょっと照れた様にはにかみながら、彼女は濡れた髪を風になびかせていた。
確率で言ったら宝くじの高額当選に匹敵するのではないかと思う。
生まれて初めての海外一人旅で東南アジアの島々を巡っていて、たまたま目にしたポスターに惹かれて参加したスクーバダイビングの体験ツアーで、元姑とボートの上で鉢合わせるなどという事は。
何の宗教の何と言う神様の思し召しなのかは知らないが、束の間の現実逃避を心から欲していた私に対して随分な仕打ちじゃ無いかと、その何某かを強かに呪った。
都合3年弱の結婚生活だったが、私にだって言い分位はあるのだ。
足らぬ至らぬは確かに認めつつも、離婚の痛手は双方平等に分割するという訳にはいかない。
古傷に塩分濃度高めの海水は思いの外沁みるじゃないか。
ついさっき迄透き通る様な海の底で、色とりどりの珊瑚や魚達に囲まれていた私の心は、風船の様に萎んで皺くちゃになってしまった。
義母はちょっと見ぬ間に垢抜けていた。
確か60歳は優に越えているはずだ。
同居していた頃は常に地味な服装で、控え目な主婦といった佇まいの印象があったのに。
今目の前でカールした長い茶髪を掻き上げる彼女は、まるでバブル期のトレンディ女優の様だった。
「咲ちゃんは、今も独身なの?」
見れば分るだろうと心の中で毒を吐くが、何とか笑顔で私は頷く。
「じゃあ、仕事一筋のキャリアウーマンってやつだ」
南国の海の上で職場の事なんか思い出させないでくれと笑顔が引き攣るも、これも寸での所で何とか受け流す。
だから自分でもどうしてだったのかと不思議に思った。
慣れない海外旅行で心細い気持ちが多少はあったのだと思うけど。
その時私は会いたくない人に、会いたくない場所で、会いたくないタイミングで遭遇したはずではあったのだったが、そのややデリカシーに欠けた義母が一緒に飲まないかと誘ってくれたのに対して、少し嬉しく感じてしまっていたのだった。
 
           2
 
私の泊まっているホテルのラウンジで義母と杯を交わした。
一緒に暮らしていた時は滅多にお酒を口にしなかったはずの義母が、ぐいぐいとビールジョッキを傾けていた。
南国のホテルらしく海が見渡せるテラスが目の前に広がっていて、開け放たれた大きな窓からは心地良い南風が入ってきていた。
最期の夕陽が水平線に消え、ホテルの庭の篝火台には火が灯された。
周りのテーブルには様々な言語の話し声が飛び交っていた。
ああ、私は今南の島にいるんだと浸っていると、容赦なく目の前に座っている義母が元旦那の近況を聞いてもいないのにべらべらと喋ってくる。
私は少しだけ後悔していた。
「それでね、あの子は転勤先の岩手でバツイチ同士っていう子持ちの保母さんと再婚したのよ。まあまあそれは良いんだけどね、相手もまあ色々と事情があったんだろうけどね、結納も式も挙げずに、一回だけ挨拶に来たっきり。一回きりよ。ちょっとそれはどうかと思うわよねぇ?」
「はぁ、まあ、そうですね」
私は適当な相槌で義母の投げてくる球を器用にバットの先でカットし続けた。
これも職場での長い経験で培った処世術だ。
結婚し、寿退社して、離婚の果てに、職場復帰。
今更世間体や周りの好奇の目などを一々気にしてたら独り者なんかやっていけない。
思えば私は強くなった。
それだけは自信を持って言える事だった。
「お義父さんはお元気ですか?」
私は義母の話の切れ目に、合いの手の様なつもりで口を挟んだ。
「死んだわよ。2年前に」
「えっ!?」
「あれ?報せてなかったかしらね。極々身内で済ませちゃったのよ。ほら、コロナとか色々あったでしょ?」
事も無げに衝撃的な事を言ってくる。
私はただただ唖然としてしまった。
「それから、あの子も転勤でいなくなったから、もう思い切って家もポーンと売りに出してね、だからあたしは今ここで自由気ままな生活を送ってるのよ」
義母はそう言って如何にも美味しそうにジョッキのビールを飲み干す。
「えっ?ここでって、お義母さんここに住んでるんですか?旅行とかじゃなくて?」
「うん、そうよ。もう1年になるかな。この島に別荘を買って、悠々自適な独り暮らしよ」
またもや衝撃の事実だった。
私は知らず知らずの内に敵のテリトリーに自らのこのこと入り込んできていたのだった。
しかもなけなしの貯金に貴重な有休までも消化して。
「でも、どうしてまた、海外生活なんて思い切った・・」
私が次の句を継げないでいると、義母は高笑いをしながらウエイターにビールのお代わりを注文する。
心なしかその仕草にはネイティブの様な余裕まで漂っていた。
「とにかくね、私は私の人生を楽しもうって決めたの。結局最後は皆一人で死ぬんだからさ。楽しまなくちゃ損じゃない」
気持ち良い位に分かりやすい不良老人が出来上がったもんだと、私は心の中で溜息をついたが、まぁそれも一理あるなと思った。
私だって自分の幸せの為に離婚したんじゃないか。
でも、それで本当に私は幸せになったのだろうか?
私と元旦那は取引先との合コンで知り合った。見た目そこそこ、収入そこそこ、性格そこそこ。
可も不可もない相手と交際・結婚とスピーディに事が運んでしまったのはやっぱり、結婚適齢期という世間体の呪縛から逃れる事が出来無った所為もあった。
自分の望む生活や将来というものが何だかよく分らなかった所為でもある。
まぁ、結局はごく当たり前のレールを歩むのが幸せであるという価値観に、楯突けるだけの独立心が私には無かったという事なのかも知れない。
3年程経って、私は何をしているんだろうかとふと冷静になってしまって、それであっさりと離婚してしまったのだった。
「あなたも自分の人生を楽しまなくっちゃ駄目よ。本当に。私もお父さんと結婚して、あの子を生んで、育てて、色々あって結局一人になった時に思ったのよ。私は本当は何になりたかったんだろうって。何がしたかったんだろうって。60歳を過ぎて何言ってんのって思うかも知れないけどね。そう考え出したらもう居ても立ってもいられなくなったのよ」
義母は頬を紅潮させて楽し気だ。
私の事も何とも思っていない様に見える。
彼女と同居していた時、特に険悪になった事などは無かったが、だからと言って何でも話せる関係という訳でもなかった。
言ってみればどこまでも他人のままに、気を使っている事を互いに悟られない様に気を使っていた様に思う。
窮屈で仕方ないという程では無かったけど、両手を伸ばして過ごせないという様な、まぁどこにでもあるそんな関係性だったのだ。
こんな奇跡的な再会が無ければ多分一生会う事も無かっただろう。
でも、今こうして面と向かっていても特に不快感は無い。
ちょっと面倒臭いだけだ。
悪くない。
そう、私は全然悪くないなと思っていたのだった。
 
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結局ラウンジの閉店時間までビールを飲み続けていた義母を何とかタクシーに乗せて送り出し、私は少し海辺を歩く事にした。
さっき教え合ったばかりのラインのトーク画面に、義母から見た事も無い昭和感のあるキャラクターのスタンプが送られてきた。
私はそれを見て自然に声を出して笑っていた。
月の光が夜の海に揺らめく黄色い線を伸ばし、生暖かい風が頬を掠める。
防波堤ではカップル達が思い思いの時間を過ごしていて、海岸線を通り過ぎる車からは音楽が大音量で漏れ聞こえてくる。
ああ、私は一人だと思った。
東京でも一人を感じる時はあったが、その感じとはどこか違って居心地の良い一人だった。
初めての海外一人旅で内心少しビビッていたのだったが、まさかの義母の登場で逆に私は心を落ち着かせられたのかも知れないなと思った。
本当に驚いたけれど。
この何が起こるか分らないっていう感覚が懐かしいなと思った。
不安だけどちょっとわくわくするこの感じ。
私は思い切ってここにやってきて良かったと思っていた。
私がこの旅に出た理由にはちょっと不思議なエピソードがあった。
それは半年前の事。
高校の同級生から久し振りに連絡があって、西新宿のバーで会う事になった。
待ち合わせの時間より少し早く店に着いたので、私はカウンターに座ってグラスビールを一人で飲んでいた。
暫くすると突然店の照明が全て消えて、カウンターの奥からローソクの灯ったケーキを持ったウェイターが出てくるのが見えた。
誰かの誕生日のサプライズなのだろうと思っていたら、何とそのケーキは私の目の前にそっと置かれた。
茫然とする私にウェイターが手拍子をしながらバースデーソングを歌い出す。
周りの客席からも拍手と視線が集まり、私はどうしていいのか分からなくなってしまった。
私の誕生日はまだ2ヶ月も先だった。
きっと他の誰かと間違えたのだろうと思い、それを伝えようとしたが汲み取って貰えない。
その場の空気が微笑ましい色に染まりきってしまっていて、バースデーソングが終わってあとはロウソクの火を吹き消すのみというタイミングになってしまった。
その時、すぐ後ろに人の気配を感じると思ったら肩越しに勢いよく風が通り抜けロウソクの火が一瞬で吹き消された。
振り向くとそこには見知らぬ男が立っていた。
「おめでとう、咲。僕の事分かる?」
全く見覚えがなかった。年恰好は私と同世代位に見える。
背は余り高くなく華奢な身体付きをしていた。
高級そうなスーツを着ていて品は良い感じ。
ん?待てよ?何かその表情に薄っすらと見覚えがある様な気がした。
「分んないよね。こんな恰好じゃあ。絵美だよ、私」
多分その時、私の目は見事に点になっていた事だろう。
「えっ?絵美って?えっ?絵美?絵美の・・・本人?」
私は仰天してしまった。
確かに久し振りだったが、この変わり様で分るはずが無い。
絵美は男装というか、完全に男性にしか見えなかった。
「私ね、今は聡っていうの。驚いたよね。つまりは、そういう事なんだ」
絵美、いや聡はちょっとはにかみながら白い歯を見せて笑っていた。
その表情は高校3年間、女子バスケットボールチームで苦楽を共にした旧友のそれに間違いがなかった。
余りの驚きに何と言っていいのか分らない。
「咲に会うと駄目だね。女の子に戻っちゃう。どうしても話し方の癖って抜けないんだよね。あのね、本当に驚かせちゃったと思うけど、私ずっと男の子になりたかったんだ。というか、心の中はずっと男の子だったの」
聡はカウンターに腰を下ろし、壁一面に並んでいる色とりどりのお酒のボトルに遠い視線を向けながら言った。
私はその横顔を見て、薄暗い店の中でも分る位に白く透き通る様な肌がとても綺麗だと思っていた。
「ケーキ驚いたでしょ?誕生日まだなのは知ってたけど、今日祝っておきたいと思って。私ね、次会う時には完全に男なんだ。手術するの。それだから、生まれ変わる前にもう一度咲に会っておきたかったんだ」
私は混乱した頭で懸命に話を理解しようとしたが、情報処理が追い付いてこなかった。
「でも、今まで全く分らなかった・・・その・・絵美が・・そういう風だって・・」
私は消え入りそうな声で何とかそれだけ言った。
「うん。それはそうだよね。ずっと隠して生きてきたから、私も色々あって、それでまぁ、人生一度きりだし、自分らしく生きて行こうって。そう思って決心したの」
聡は私の目を見て少し悲しそうに笑った。
驚いた事に顎には髭が綺麗に整えられていた。
「私は今までずっと嘘を付いてきた。でもそれは何より自分自身に悪いなって思ったの。可哀相だって。人間は生きていれば辛い事なんていくらだってあるんだし、私だけ不幸だなんて思い上がりもいい所だってね、そう思ったの」
私は聡の話を聞いていて、何だか羨ましい様な気持ちになっていった。
私は女として何となく生きてきた。
何となく恋愛して、何となく結婚して、何となく離婚した。
自分らしく生きるなんて、いつの間にか考える事も無くなっていた。
本当の幸せ?
本当の自分?
私はいつから人生こんなもんだって感じで生きる様になってしまったんだろうか?
「私ね。高校の時から咲の事が好きだったの。友達としてじゃなくて異性として。だからどうしようって訳じゃ無かったんだけどね。だからそんな自分を認めてあげようと思ってこういう生き方を選んだんだ。だから咲には知っていて欲しいと思って今日呼んだの」
私は嬉しかった。
本当に。
勿論、心底驚いたけど。
その日、聡と思い出話に花を咲かせて、色んな事で笑いあって、私は旅に出ようって思ったのだ。
自分が今まで自分にしてあげてこなかった事をしてあげようと思った。
旅先はどこでも良かったのだけど、丁度その時聡が東南アジアの海の話をしてくれたので、私はそこに行ってみようと決めたのだった。
 
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女も30を過ぎると、度胸が据わって大抵の事には驚かなくなる、と思っていた。
それがこの半年間の激しい起伏に動悸も上がり息も絶え絶えという感じだった。
何か思っていたのとは少し違う気もするが、確かに自分の人生に変化が訪れているという事なのかも知れない。
私はそう思うようにして自分の心を落ち着かせる事にした。
次の日の朝5時に義母からラインがきて一緒に出掛けないかと誘われた。
私はぼーとした寝不足の頭で考えた。
ホテルの部屋からはまだ薄暗い浜が見えた。
静かな波音に耳を澄ませ、とにかくこれからは何事からも逃げずに自ら飛び込んで行こうと自分を鼓舞した。
驚いた事に義母はホテルの車寄せに真っ赤なオープンカーで現れた。
私は車と言えば皆同じに見える様な人間だったのだが、そんな私でもその車が最上級で最先端なものだという事位は分った。
義母は派手な黄色のスカーフを首に巻き、大きなサングラスを掛けて手を振っている。
東京の狭小住宅で猫の額の様な小さな庭で毎日せっせとガーデニングに勤しんでいた嘗ての義母とはとても同一人物に見えなかった。
何だか私の周りの世界が、私だけ取り残して目まぐるしく変化しているみたいに感じた。
「お早う、咲ちゃん。良い天気で良かったわね。絶好のドライブ日和じゃない」
そういえば義母が車の免許を持っていた事も知らなかった。
少なくとも同居時代は一度も車を運転しているのを見た事が無い。
私と元旦那との些細な価値観のズレが次第に膨れ上がって修復不可能に至る過程にあっても、義母は毎日台所に立って嫌な顔一つ見せずに食事の用意をしてくれていた。
あの頃の私は自分一人だけが他人であるという事が、どうしても苛立たしいものに感じられた。
そんな事は百も承知で嫁入りしたというのに。
想像と現実との理屈では割り切れないギャップが日増しに私の心を蝕んでいった。
今思えば本当に良くしてもらっていたと思うのに。
ド派手なオープンカーの助手席で、私は義母の他愛ない世間話に適当に相槌を打ちながら、あの頃の自分の我儘や苛立ちを思い出して気持ちが塞いでいくのを感じていた。
車は海岸線を軽快なスピードで進んでいく。
出来る事なら私のこのネチネチとした心の雨雲もバックミラーの彼方に吹き飛ばしてくれよと、私は真っ赤なオープンカーに黙って念じていた。
「咲ちゃん、今日はね、ちょっとあなたを連れて行きたい場所があるの。何だかこうしてあなたがこの島に来たのも運命の様に感じるのよ。だってそうじゃない?まさかこんな所で再会するなんて。何だか本当に信じられない気持ちなのよ」
そう言って義母はカーラジオのスイッチを入れた。
私には解らない言葉の、ゆったりとした軽音楽が緩やかに響き始めた。
道は空いていて車は海岸線から大きくカーブを切って山道に入っていった。道の両脇には日本では余り見ない様な樹々がカラフルな花を沢山付けて並んでいた。
今日も生温い風が頬に心地良い。
絵美、いや聡があの日言っていた事を思い出す。
東南アジアの島々の風は潮と花の香りで何だか美味しそうな匂いがすると。
聡は心と体との違和がやっと無くなって、今どんな気持ちで日々を過ごしているだろうか。
彼の目に映るその世界がどうか美しいものである様にと、私は心の中で祈った。
車は山間の峠を軽やかに進んでいった。
遠くに陽の光をきらきらと反射させる大きな海が広がっているのが見える。昨日生まれて初めてスクーバーダイビングを体験して、私は美しい珊瑚礁よりも、色んな種類の魚達よりも、海の底まで照らす真っ直ぐな光のカーテンから目を離せなくなっていた。
暗い場所にもちゃんと届く太陽の光。
私はそれをとても正直で、公平な力の様に感じたのだった。
綺麗な粟粒となって私の体の中を廻った酸素が海面へと立ち昇っていく。
吸っては吐き出すその繰り返しの音だけが耳を覆い尽くす。
ほんの僅かな時間だったけど、海中からボートに戻った時私は一度死んでまた生まれ変わった様な気持ちがした。
自分の身体が信じられない位重く感じた。
それは普段の生活の中では忘れていた重力の復讐だった。
そしてそれは思いの外心地いい疲労感でもあったのだ。
暫くして大きな駐車場に車が停められた。
公園の様だったが辺りに人気は余り無かった。
「さぁ、ここよ。とても眺めがいいから、少し歩きましょう」
真っ赤なサンダルから真っ赤なペディキュアを覗かせた義母が私の手を取って歩き出した。
誰かと手を繋いだのなんて何年振りだろうか。
まさかその相手が元姑だとは。
そこは目が痛くなる程に緑鮮やかな芝生が覆った丘陵で、遠く眼下には海が広がっていた。
人の手が入った人工的な景色だったが、所々に植えられた枝葉の豊かな喬木の木陰は如何にも涼し気で居心地が良さそうに見えた。
「あなたがここに来るなんて。きっとあの人も吃驚するわよ」
義母はそう言って笑いながら、私の手を引いて先へと進む。
あの人って誰の事だろうか?
誰かと待ち合わせているのだろうか?
私はその場所の美しさとカラッとした陽気の心地良さに段々と心が軽くなっていくのを感じていた。
「その島の空気は肌にぴったりと寄り添ってね、包み込んでくれるみたいなの」
聡がそう言っていたのを私はまた思い出していた。
暫く歩くと、等間隔に並ぶ木々の根元の土に石のプレートが埋め込まれているのが見えた。
赤い花のリースがそっと置かれているプレートもあった。
その前に佇む人達の姿も。
ああ、ここは墓地なんだと私はその時やっと気が付いた。
「もうすぐそこよ。あの人が好きだった百日紅の木が目印なの」
そう言って義母はサングラスを取って私に微笑み掛けてきた。
私は何だか全てが夢みたいだと感じていた。
夢の中で懐かしい人達が次々と私の前に現れては消えていく。
それを茫然と眺めていて、私はそれを夢だと気が付きながら醒めないでくれたらと願っている。
この島の空気と陽気はそうだ、夢の中の様なんだとその時私は確信していた。
赤い花を見事に咲かせた百日紅の根元のプレートには、義父の名がそっと刻まれていた。
幾何学模様の縁飾りがあしらわれ、鈍く磨かれひんやりと冷たそうなその石のプレートは、この世界からどこか別の世界へと繋がっている、小さな入口の扉の様だった。
「この国はイスラムの人が多いんだけどね、このプレートには何の神様とも関係の無い模様しか入れなかったの。あの人の骨は半分日本で眠っていて半分がここにある。ここから見える素晴らしい景色の邪魔になるものは何も入れたくなかったのよね」
義母はそう言って彼方に広がる大きな海を眺めた。
私もその景色を眺めながら、今は亡きここで眠る義父の事を思い出していた。
寡黙で実直で、何を考えている人なのかよく分らなかったけど、いつも静かに笑う軟らかい人だった。
私はこの二人に、しっかりと受け入れられていたんだなと改めて思った。
少し時間が掛かってしまったけれど、こうしてここでまた縁が交わるなんて。
誰も想像していなかっただろうけど、予め決まっていた事だったのかも知れないとも思った。
旅は人を日常からあっさりとはみ出させ、非現実さえも容易く受領させる。そんな力を持っていた事を私は久し振りに実感したのだった。
 
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私にも離婚した後それなりに恋愛事情があるにはあった。
どれも自慢出来る様な物では無かったが、それも私自身に恋愛に対する真剣さが足りなかった様に今では感じている。
つまりは最初の結婚生活が私に与えた人生観への影響は、思いの外大きかったという事だ。
互いが描いていた未来像に少しずつズレが生じる様になると、私はお気に入りの洋服に何かのソースの染みが広がっていく様な不快感を持つようになっていった。
それも1つの味だと諦めてそのまま袖を通すにはまだ若過ぎて、だからと言って一々クリーニングに出して染み抜きする程の体力はもう残っていなかった。
ただ緩やかな絶望を身体に纏わせて、私は口を噤んであの家を出て行った。
紙切れ一枚の手続きで得た身軽さは言うまでも無く望んだ自由とはどこか違っていて、毎晩一人分の食卓には虚しさだけが皿に盛られた。
東南アジア有数のリゾート地として有名な隣の島から逃げる様にこの小さな島にフェリーでやってきて、最初に船着き場で目にしたのが海底に真っ直ぐ差し込む日の光をあしらったスクーバーダイビングの観光ポスターだった。私はそんなリゾートアクティビティに興味など無かった筈なのに、そのポスターを眺めている内に気が付くと案内所で体験コースの申し込みをしていた。
それは今思うと何かに導かれていたかの様だった。
義母はあの百日紅の木の下で私の手を握ったまま放さなかった。
その手の温かさは今でも鮮明に思い出せる。
友達としてやり直してみない?と言った時のはにかんだ笑顔も。
結局何かを分り合った訳では無いのかも知れないけど、私と義母はあの時漸くどこかで繋がる事が出来た様に思えた。
家族でも無く、友達でも無く、何か形容できない様な不思議な絆によって。私は長い休暇を終えて東京の職場に戻っても、前の様に無為な週末を過ごす事はなくなった。
千葉の実家にもよく顔を出す様になった。
遂に本来の自分へと生まれ変わった聡ともよくお酒を飲みに行く様になった。私も聡や義母の様に生まれ変わる事が出来るのだろうか?
私は最近よく自分の吐いた息が泡になって立ち昇っていく、あの島の明るい海の底の事を思い出す。
あの景色は私の人生にもどんな事だって起こり得るんだと強く感じさせてくれた様に思う。
それは何だかとても心強い気がした。
東京でゆっくりと河川敷に沈んでいく夕陽を見た日なんかには、私は島の事を思い出した。
そしてあの美しい丘の百日紅の木の下に、いつか並んで静かに眠るあの二人の事を少し考えた。
温かい風が浜から吹いてきて私の頬を掠めていく。
 
大丈夫。
そう、私は大丈夫だ。
 
目を閉じて眠り、翌日また目覚めて緩やかに生まれ変わっていくこの日々の中で、私はそう強く心に思った。

           完

illustration by chisa

         あとがき

こんにちは。ころっぷです。
この度は【生まれ、変わる】を読んで頂きありがとうございます。

今回の作品は「旅」と「友」をテーマに書き上げました。
コロナもあって随分「旅」に行けていないので、
せめて小説の中で「旅」をしたいと思いました。
「友達」にも随分長い間会えていませんが、
こういう「友情」もあったら良いなという思いで書いてみました。

作品を重ねていく中でよりシンプルな表現を好んでいく傾向が、
自分にはあるのかなと思ったりもしました。
これからも色んな世界の人達を描いていきたいと思います。
また次回作でお会い出来るのを楽しみに。

2024・4・30 ころっぷ


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