カンガルーの涙。

カンガルーに襲われた。

なぜかカンガルーが、私に迫って殴りかかろうとする。しかも、無表情だ。いや、無表情は当たり前にしても何かこう、殺気立ったものがあればそれなりに”あぁ、何かに怒っているんだな”とある程度理解が出来るものだけど、無表情となると、まるでそれがキョンシー(懐かしい)のようで、恐怖さえ凍りつく。

私は昔の漫画みたいに、足をくるくる回して逃げるけど、なにせ、相手はカンガルーだ。ぴょんぴょんとすぐに追いつかれて、ガンガンと容赦なく叩かれてしまう。

たぶん、夢を見ているのだろうと、夢の中の私が思っている。

夢なのにとても痛い。(そりゃないだろう。)痛いけど、不思議に手加減をしてくれているような…そんな痛さ。叩かれながらも”あぁこの感覚、たしか昔あったような…”と、どこかで私は思い出している。

この叩き方…。そうか、昔、近所に住んでた永井君(仮名)だ、とぼんやりとした朝の中、私はようやくそれに気づく。永井君は、私が小学5年生の頃に、ある日、突然に転校してきた。顔はとても色黒で体は痩せていて、小学生のくせに笑うと目の周りのしわがすごくて、すばしっこくて・・・はっきりいって、彼はとても変人だった。

目立ちたがり屋だったのか、彼はよく先生に質問をした。「先生、宇宙人はいるんですか?」それが国語の授業中なのだからどうしようもない。今は漢字の勉強をしている。宇宙人は関係ない。先生もあきれながらも「静かにしなさいね」と彼を軽く叱る始末。そんな彼なものだから、友達も出来なかった。

今思えば、彼は頭が良すぎたのだと思う。いつも不思議な質問をしては、先生や僕らを困らせていた。それがどんな質問だったのか、今の私が思い出そうとしても、さっきの宇宙人くらいしか思い浮かばない。たぶん、難しすぎたのだと思う。

そんな彼と、なぜだか私は不思議なことに友達になった。たまたま私の席が彼の隣だったということと、彼がよく教科書を忘れて(あきれるほどによく忘れていた。)私が見せていたということで、話す機会が多かったからだろう。

そんな中、私は彼が漫画好きということを知った。彼が書く漫画はとても上手だった。ただ、うまく書くだけでなく、ちゃんと彼はオリジナルの漫画を書いていた。彼の漫画を読ませてもらっては、私はそのうまさに感心していた。(ストーリーはヒーロー物とわかるものの、よく理解できなかった。)

「うちに来ないか?」とある日、彼は私をさそってくれた。学校が終わって彼の家に行くと、恐ろしいくらいに壊れかけた古い一軒家だった。「実はオレ、また、引越しするんだ」と、彼は何かのついでみたいに言った。事情はよくわからないけれど、彼には母親はもういなくて、父親と弟だけが彼の家族のようだった。

それまでに何度となく、引越しを繰り返してきたようだ。数ヶ月で引っ越すものだから、転校しても友達が出来そうなころに、いつも、お別れをしなきゃならなくなる。だから彼は友達を作らないのだと、私にポツリと教えてくれた。

”じゃぁ、僕は友達じゃないの?”と、そのときの私は思ったけれど、別に言葉にしなかった。そんなこと、小学生の私にとっては、たぶん、どうでもいいことだった。今が楽しければそれでいい。それが小さな子供である私の普通の毎日だったのだ。あの日はただ、二人で彼の好きな漫画本を見て、それでバイバイしたように思う。

彼の家に二度目に行ったとき、なぜか私は彼とケンカをした。たぶん、彼が書いた漫画を私が悪く言ったとか、その程度だったようにと思う。最初は冗談のつもりでも、それがだんだんエスカレートしてゆく。仲良しになった頃にありがちな、そんな子供の幼稚なケンカだ。

彼が私の胸を叩く。「謝れ、謝れ!」と叫ぶ声が少しづつ涙声になる。そうして彼は、とうとう泣きながら私を何度も叩くのだった。となりで小さな彼の弟が、それを見て泣いている。日の当たらない暗い部屋はとても冷たくて、私はそこにいられなくなって、ギシギシと廊下を小さく走って、そして家から出て行った。

私の背中に彼は言った。「呼ぶんじゃなかった!」そのときは「くそ!」くらいにしか私は思わなかったけど、今ではとても辛い言葉だ。

結局、仲直りもできないうちに、彼はまた、転校して行った。あまりにも急だったので、お別れの挨拶もなく、ましてやお別れ会もなく、彼は行ってしまったのだった。そのせいか、正直、私はずっと彼のことを忘れていた。あのカンガルーの夢を見るまでは。こうしてこの日記を書くまでは。

大人になってから見えてくるものって、あるんだなぁとつくづく思う。あの頃には気づかなくて、今だからわかること。彼は変人なんかじゃなくて、そこにいた証みたいなものを残したかったのだと思う。二度と友達を作らないと決めた日から、きっと。

だからいつも、あんな変な質問をしては、みんなを笑わせたり困らせたりして、誰かと決して仲良くならないそのかわりに、自分という存在を、覚えて欲しかったのだと思う。

彼にとっては一日が、私にはどうでもいいような日も、とても大切なものだったのだろう。その証拠と言うか、思い出せば彼はよく、学校でケンカしたり(先生とさえもケンカしてた。)泣いたり、笑ったり・・・私も弱虫だったけど、それ以上に、彼はとても弱虫で泣き虫で、それでもいつも急ぐようにして、日々を過ごしていたように思う。

どうして私を家に呼んだのか?今の私にさえ、それはわからないけれど、やっぱり寂しかったのだと思う。誰かにわかって欲しかったのだと思う。それでも、その寂しさを埋めるようなやさしい私ではなかったけれど。

夢の中のカンガルーも、たぶん、
泣いていたんだろうなぁと思う。

叩きながら泣きながら、それでもあの頃の
彼のように、小さく手加減しながらも・・・。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一