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美しい風景と正しさと。

昔、住んでいた街は、桜がきれいに見える場所があった。それは川沿いの両側に満開の桜が果てしなく続いていて、さらにその土手には、菜の花が咲き誇っているという壮大な景色だった。

桜の花のピンクと菜の花のあざやかな黄色が、まるでやわらかなクレヨンで描かれたみたいにストライプになっていた。なんだか色たちがうれしそうに、きれいな小川の両側で遊んでるみたいな風景だった。

その風景を前にして「もう、この美しさに言葉はいらないんじゃないか」と思えるほどだった。まだ私たち夫婦に子供がいなかった昔のことだ。「来年も、きっとここで花見をしようね」とはしゃぐ彼女に「うん、絶対だね」と私もとても喜んだものだ。

でもその美しい風景は、私たち夫婦にとって
それが最後になってしまった。

翌年の春、久しぶりにその場所に訪れた私たちは、目に前に広がる変わり果てた風景に、ただ、立ち尽くすばかりだった。

川の土手は、ショベルカーでえぐられ、コンクリートで固められ、菜の花は死に絶えてしまっていた。桜の木だけがそこに残されていた。大切な友達をなくしたかのように、桜の木がどこか哀しそうに見えていた。

「こんなこと、する必要があったのかなぁ…」

ポツリと彼女がつぶやいた。

「人間のすることはわからないね」

桜に心があるとしたら、私の言ったその言葉は、たぶん同じものだっただろう。結局、私たち二人は、もうそこでお弁当を広げる気にもならず、ただ、ぼんやりと桜を見つめていた。あの時ほど、春をとても寂しく感じたことはなかった。

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その風景にふと、私は遠いあの頃を思い出していた。
それは高校の頃、生物の授業でのことだった。

その生物のY先生は、若い先生だったけど、とても変わった人だった。ちっとも笑わないし、いつも汚れた白衣を着ていて、何かぶつぶつつぶやいているような人だった。でも、私はなぜかその先生が好きだった。笑わないけど、いつも真剣に私たちの話を聞いてくれたから。

Y先生は、ある日の授業で、いきなり私たちに、黒板に2枚の写真を貼って見せた。ひとつは、川の土手に草がボウボウに生えている写真。もうひとつは、川の土手がコンクリートで白くきれいに舗装されているものだった。

Y先生は私たち生徒に質問をした。

「君たちは、どっちの写真が美しいと思うか?」

Y先生は、ニコリともせずに言った。その表情はとても厳しいものだった。どっちが美しいか?と言われても、草ボウボウの写真より、白くてきれいに舗装された写真のほうが、きれいに決まっていた。

生徒の誰もが、「コンクリートできれいに整備されている写真のほうが美しいです」と答えた。でも、Y先生はこのコンクリートのほうの写真を見て、手でぴしゃっと叩くとこう言ったのだ。

「違う!この写真は醜いんだ」と。

「草が生い茂っている川には、様々な生命が満ち溢れていた。しかし、その川をコンクリートで白く固めて”さぁ、きれいになったでしょ”と誰かが言ったとしても、私はきれいなんて思わない。それは生命を死に絶えさせた人間の奢りなのだ!」

Y先生はひとり、激怒していた。

今思えば、あれは先生のかなり個人的な授業だったと思う。それでも”あぁ、そうか、この草ボウボウの中には、私達には見えない生命があふれているんだな”と私はその存在に気づいていないことを、とても恥ずかしく思ったものだ。もちろん、国や市町村が行うこういった行政の施策は、何か必要があってのことなのだろう。

でも、今の私はそこに自分の心を、当てはめて思うようになっていた。自分でした正しいと思うことが、本当に正しいことなのだろうかと。

「こんなこと、する必要があったのかなぁ…」

あの日、つぶやいた彼女の言葉が、まだ、耳の奥に残っている。そして私は自分に問う。もしや私も気づかないうちに、同じことをしていないだろうかと。あの日、生物の先生が怒りながら教えてくれたように。

一見、正しいと見えるものが、本当に正しいとは限らない。それは自分の心であったり、誰かの言葉であったり。

自分が作った心の風景を、見るたび私は自分に問うのだ。
本当に大切な何かを、そこに見落としてはいないだろうかと。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一