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10年前の色あせた名刺

まだ、私が電器売場の店員をしていた頃のこと。そのお客さんは、とても変わった初老の男性だった。

「先日、お電話を、あなたに差し上げた者ですが・・・」

私の名札を見ながら、その男性は言った。とても丁寧な口調だけど、どこか見た感じが変だった。なんだかまるで軍隊みたいに、戦況の報告を聞いているような感じだ。白髭とよれた帽子がとてもおしゃれだけど、ちょっとミスマッチな感じがする。

「あ、テレビの故障の件でお電話を頂いたお客様ですね?」

そう、このお客さんは、先日、店に電話をされたお客様で、その対応を、たまたま私がしたのだった。確か10年前にこの店で買ったテレビが映らなくなったということだ。そろそろテレビの寿命も近くなっているので、修理するよりは新しく買った方がいいかもいしれませんが・・・と、私がいろいろとアドバイスをしたのだった。

結局、「よく考えた上でまた電話します」ということになっていた。「わざわざご来店下さったのですか?お電話で結構でしたのに」と、本当に心からそう思ったので、私は素直にそう言った。「いえ、直接私から伝えたいことがありましたもので・・・」その男性は直立不動で、いちいち話の文節が終わる度に小さくお辞儀をしている。なんだかとてもやりにくい。

「あぁ、そうですか、修理にされますか?それとも、もし新しく買われるのでしたら売場でご説明いたしますが・・・」「いや、申し訳ないのですが、実は子供から不要なテレビを譲り受けましたので、修理も新しく買うテレビの件も、必要なくなりました。それをお伝えしようと・・・いやはや、実にお騒がせをさせてしまいましたな」

小さな笑みが、しわとともにあたたかくこぼれた。ちなみに初老の男性は、最後の”ましたな”の話の終わりでまた小さくお辞儀をしていた。「いえいえ、そんな・・・でも、それは良かったですね」と私も小さくお辞儀をした。普通なら、それで終わる会話のはずが、この初老の男性の場合、やはり、普通には終わりはしなかったのだった。

「ところで・・・」

更にまた、話し掛けられた。

「はい?」と、ちょっと半信半疑な私。(一体なんだろう?)

「この方はいらっしゃいますか?」と1枚の名刺を私の目の前に出された。(しかも、またお辞儀をしながら。)それは、確かにうちの店の名刺だったけど、その名前の係員はこの店にはいなかったし、私はその方をまったく知らなかった。

「こういう名前の係員は、この店にはおりませんが・・・もしかしたら、別の店に転勤したかもしれませんね」

たぶん、そうだと思った。私たち店員は、すぐに勤務先が変わる転勤族なのだ。「そうですか、それでどちらにご転勤されたかご存知ないですか?」それは残念ながら、わからなかった。それでも何かの手がかりにと思い、私はこう尋ねてみた。

「ところで・・・この名刺は、一体、いつ頃、頂いたものなのですか?」

「そうですなぁ・・・もう10年前になりますかなぁ」

念の為言っておくけど、別に私が聞き間違えたわけじゃなくて、こちらのお客さんは、確かに10年前に接客を受けたこの係員のことをお尋ねだったのだ。思わず”うひゃぁ”と声を上げそうになった。個人経営でもない限り、いくらなんでも、10年前に接客をした店員が、いまだに同じ店にいるなんてことは、まず、ないだろう。

どうしてその人のことを今頃・・・ただ、そう思うばかりだった。私がそんな感じで不思議がっていると初老の男性は、静かに、私に話し始めた。

「昨日、壊れたテレビは、10年前にこちらの店員さんから買ったもので、とても親切にしてくださったので、10年間のお礼にと思ったのですが・・・そうですね、もう、こんなにも昔のことですものね、いや、大変失礼しました」

そう言うと、男性は片手に帽子をちょいと持ち上げて「それでは・・・」と小さな声で、売場を後にしたのだった。

なんだか私はその言葉に、じぃぃんときてしまった。出来る事なら今すぐにでも、その名刺の持ち主に、このことを伝えたかった。店員にとって、こんな幸せなことがあるのだろうか?

10年間、テレビを使い終わってそのお礼を言いに来られるお客様なんて、私は今まで聞いたこともなければ見たこともない。

私はまるで、自分のことのように、とてもうれしくなってしまった。こんなに深い心の繋がりを見せてもらって、心からあの初老の男性に感謝したい気持になった。

私も、あんなふうに思われてみたい。長い時が流れても、たとえ色褪せても何も変わらないような、そんな仕事をしてみたい。いつか忘れてしまっても、いつまでもその人の心のどこかに、ずっと残り続けるような。

ちょうどあの少しだけ色褪せていた10年前の名刺のように。初老の男性のあのお辞儀姿が、また、この目に蘇ってくる。

それだけで、私の気持ちは、もう、明日へと向かっている。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一