静かな世界を走る。

時々、無性にぼんやりとしたくなるとき、私は小学校の頃のあのことを思い出す。”あのこと”とは、実はちょっと悪いこと。大きな声じゃ言えないけれど、小さな声じゃ言えそうな・・・そんな小さな悪いこと。

それはドがつくほどまじめだった私にとって、心臓が飛び出るほどの失敗だった。それはたった、一度だけ。まったくと言っていいほど忘れ物をしたことがなかった私が、体操服を忘れてしまったのだ。

今思えば、他のクラスの誰かに借りたってよかったのだ。(体育がなくても、机の中に置いてるヤツはいただろうから。)でも、僕は”借りる”なんて発想自体が、まるで持ち合わせていなかった。どうしよう・・・。

泣きそうなほど悩んだ挙句、私にある考えが浮ぶ。体育の授業は午後からだ。そうだ!昼食時間に家に帰って体操服を取りに戻ればいいんだと。家まで走れば10分もかからない。十分に間に合う。私はそう考えると、昼の給食を誰よりも早く終えて、誰にも内緒で学校を飛び出た。

平日の午後の町・・・。
本当なら私の知るはずのない世界。

それはとても不思議な体験だった。すべての世界が落ち着いている。
何もかもがゆったりしている。その静かな世界で、鳥のさえずりの声が聞こえたり畑ではおじいさんがクワを持ってゆっくりと地面に打ち込む音が聞こえたり…。

すべて聞こえてくる音は、とても滑らかでそのスローテンポなリズムは、どこか遠い過去の国から流れてくるような気がした。もしかしたら小さな不安が、私をそんなアリスの国のようなイメージに見せていたのかもしれない。でも不思議と怖くはなかった。ただ、なんとなく寂しいとずっと思ってた。

家に帰ると、誰もいない。親は共に仕事に行ってる。私はガチャリと鍵を開ける。すぐに体操服を持ち出す。家を出ようと思ったとき、何を思ったのか私はおもむろにテレビのスイッチを入れていた。

暗い部屋に、ぼぅっと青白い光が包む。そのときどんな番組だったのかは覚えてないけれど、ただ、ぼんやりとそのテレビを私はじっと見つめていた。

気づくと時間がかなり過ぎていた。
あせった。かなりあせった。

急がなきゃ!そのとき玄関で何かを落とすが(たぶん、鍵のキーホルダーか何か。)かまわず家を飛び出してゆく。学校までの道を走る。世界はやはり、どこまでも静か。すべてがゆっくりと動いてるだけ。静かな世界を私は走る。

おばあさんが縁側に座ってる。私は見つからないように、目をつむって力の限り走る。息が上がっている。学校に間に合うだろうか?ととても心配になる。畑仕事をしてるおじいさんと、途中、目があってしまう。(おじいさんも、少し驚いた顔をしている。)

私はかまわず走り抜ける。

ようやく学校が見える。けれども学校もとても静かだ。もしや私は間に合わなかったのか?すでに、自分の目に涙がたまっている。誰もいない運動場をひたすら走る。間に合ったのか?間に合わなかったのか?そればかり考えるが、不思議と私は覚えていない。それが現実のことだったのかさえも。

もしやあれは幼い頃に見た夢だったのかもしれない。そう思うと、気持ちがだんだんあやふやになる。けれどもあの時見たテレビと、縁側のおばあさんと、畑のおじいさん。それらは確かなものとして、私の記憶に宿っている。

とても静かなあの世界。普段は見ることのない国で、私は見てはいけないものを見てしまったのかもしれない。そんな小さな過ちの中で、子供心に不安になって、いつしか夢の出来事のような記憶の入れ替えをしたのかもしれない。

今でも時々、思い出す。
あの不思議と静かな世界を。

あれは本当に私の住んでた町だったのだろうか?そして私は本当に、自分の家に帰ったのだろうか?

無性にぼんやりしたくなるとき、私はふと、知らないうちにそんなことを考えている。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一