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クレーム日記「レジクレームと何が大事だったかということ」

そのときお客さんの怒鳴り声が、売場に響いていた。私がまだ、電器売場の店員だった頃のことだ。売場で商品補充していた私に、いきなり中年のおばさんが、こう言ったのだった。

「ちょっと、あんた。ココの責任者?」

それは地底の奥深くから響くような低い声だった。すぐにクレームとわかったので、忙しくしていた手を休め、私はお客さんのほうを(少々深刻な表情を浮かべながら)さっと向いた。

そのとき、何が起きたのかまだ、わからなかった。私が店の責任者というわけではなかったけど、店長は休みで、当時、ただの店員でしかない私は、その代行者だった。それに人手が足りず、いつも売場で仕事をしている唯一の社員である私が責任者のようなものだった。

それに今更待たせて誰かを呼ぶにしても、この鬼のような形相のお客さんの前では1秒も待てないだろう。私はとりあえず「はい」と答える。私が対応するしかなかった。

「あんたのとこの店員の教育はどうなってるの!
なによ、あのレジの態度は?」

「も、申し訳ございません。
どうされたのでしょうか?」

「どうされたじゃないわよ!あんた!あの女がね(レジのほうを指差しながら)私が(ある商品名)はどこ?って聞いたら”そこの売場になかったらないです”って冷たく言ったのよ!でもね、よく探したら別の売場にあったのよ!どういうことよ!!」

確かにお客さんの言い分は、もっともだ。ない、と言われてあったなら、誰だって嫌な気分になるだろう。私はそのレジの女の子と一緒にお詫びをしようとした。レジの女の子は、二十歳くらいのアルバイトで、決していつも接客態度が悪い子ではなかった。

逆にまじめで礼儀正しくて、とても大人しい子だった。

でも今は、その事情を聞く暇もなく、とりあえずお客様へのお詫びが先だと思った。そのレジの女の子はあきらかに不機嫌な態度だった。(あんな彼女を初めて見た。)お詫びをしようとしたところで、そのお客さんは更にまたこう言ったのだった。

「あんたは客を何だと思ってるんだい!」

その後にも、随分と嫌な言葉を投げていたが、これ以上はもう書きたくない。この嫌な気持ちを、誰かに広げたくはないから。でも、彼女はその言葉を、素手で直接受けてしまった。それで彼女は最初の対応で「すみません」と言ったものの、それは何の感情のひとかけらも存在しないような言葉だった。

それがさらに拍車をかけ、お客さんの怒鳴り声となったのだった。ただ、最初のひと言の印象が悪かったために、このクレームは雪が転がるように大きなものになってしまった。元はといえば、手のひらに乗るくらいのちっちゃなクレームだったのに。

私はそのレジの彼女と一緒になって、ひたすらお詫びして説教を受けて、長く感じたクレームは、深すぎて心はどこまでも暗くなった。

納得しないままにお客さんは帰っていった。私の力不足もあって、私自身もやりきれない気持ちになった。イヤというほど説教を受けた彼女に、また、私が説教をするのは、正直、気が重たかった。

でも、しないわけにはいかない。これも彼女自身のためだ。別のアルバイトに少しの間、レジを代わってもらった。

そして私は、泣きそうに目を赤くした彼女に聞いた。

「・・・何があったの?」

そう言うと、彼女が小さくうつむいてしまった。きっと我慢していたのだろう。涙が彼女の頬を、とめどなく流れていった。聞き方がまずかったのかもしれない。こういう場合、どうすればいいのか私はいまだによくわからない。ただ、叱ればいいというものじゃない。相手がどんな心であるのか、私はいつも、それを先に考える。

だから「ダメじゃないか!」ではなく、どうしても「何があったの?」になる。それが正しいかは私には自信がない。今はただ、その原因を知る必要があった。それから彼女は、お客さんのその横柄な態度について嫌な思いをしたこと、レジの忙しさについ、言葉が足りなかったことなど、心を一つ一つ確かめるように私に話してくれた。

決して彼女が悪いとは思えなかった。もちろん、彼女が悪いのだけども、私にはそうは思わなかった。私にとって、彼女にとって、それはなぜか疲れ果てた後の開放感のようなもので、心はそっと包まれてゆくような気がした。

最後に私は言った。

「いい勉強になったよね」と。

そう、クレームはいい勉強なんだ。誰が悪いということではなく、何が大事だったかというただそのこと。それをひとつひとつ、僕らは心に刻みながらも、笑顔で接して行かなければならないのだ。

やがて、落ち着きを取り戻した彼女は、心から私に反省の言葉を伝えて、また、いつものレジに戻る。いろいろな気持ちを、それでも強く切り替えながらも。

私もさっきの仕事に戻る。
また、いつもの日常に、いろんな出来事は巡り来る。

いくつもの小さな哀しみを、
それでもいくつも繰り返しながら。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一