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憎んだ彼と心の答え。

私はどこか、彼のことを憎んでいたのかもしれない。彼は常に先のことを考えていて忙しく、いつも早歩きで仕事だけが、彼の人生のように思えた。

もう、かなり昔のことだ。部署もまったく異なっていたのに、彼とは衝突することが多かった。仕事のことで彼とは何度も口喧嘩をした。

「それは違う、そんなの納得できるはずがない!」
「わかった、君の言うことももっともだ」

いつも彼が最後には決まって折れてくれていた。彼はいつも、あきれるほどに、相手に対して優しすぎた。だから私の心には、彼が見せる小さな笑顔に、いつも負けたような気がしていた。今にして思えば、私は彼のことを何も知らないでいたのかもしれない。

私と同じ歳ではあったが、彼に子供がいなかったことと、理由あって奥さんと別居していたこと。それらのことさえも、他人から聞いた話だった。

「いい加減、あのコンビニの弁当は飽きたよ」

彼のそんな何気ない言葉に、何か聞きたくて言葉を選んではみたけれど、なぜか彼の顔をみていると、私はいつも聞きそびれるのだった。

それから私達は偶然にも、ふたり同時に転勤の辞令が出た。彼は東へ、私は西へ。彼は昇格、私はそのままだった。まだ、若かった私には、それがどうしても納得できず、本当は心でわかっていても、随分と彼に冷たい態度でいたような気がする。

「お互いに頑張ろうな」

彼の求めた心からの握手に、私はあのとき、ちゃんと手を差し出したのか、それさえも今は自信がない。ふと彼のことを思い出したのは、同じ店で働いていたパートのAさんと偶然会う機会があったからだ。

「ねぇ、ねぇ、覚えている?S君のこと」
「あぁ、彼のこと?もちろん覚えているけど」
「じゃぁ、あのことも知ってるんだ?」
「あのことって?」
「え?知らないの?彼の出社拒否症のこと」

出社拒否症?私の中で、彼とその言葉の意味が、まったく繋がらないでいた。あの彼が仕事をしたくないという状況になるなんてこと、私にとっては、百歩譲っても信じることが出来ない。

「S君ね、どうも上司と気が合わないとかで、衝突することが多かったみたい。家庭でも問題があったらしいんだけど、それで突然、店に来なくなって、心配した店長が何度か彼を説得したらしいんだけど、それでもまた、店に来なくなっての繰り返しで、とうとう・・・」

「とうとう?」

「とうとう辞表を出したの」

そのとき・・・彼が私の言葉に、あっさりと折れたときの、あの小さな笑顔が思い浮んだ。

彼のその心の中に、どんな苦しみ悩みを抱えていたのか、私には何も知る由もないけれど、何も知らないでいた私は、いつも、何も知ろうとはしなかった。人はその誰かのことを、どれだけかかわればいいんだろう?誰かのために、心はどれだけ許し合えばいいんだろう?私にはその答えがわからない。

私に何も知らせなかったのは、きっと私が嫌っていることを彼にはわかっていたからだろう。そう思えば思うほどに・・・私に憎しみなんてものが、もう、これっぽっちも残ってないことに、そのとき、やっと気がついた。いまさらそれがどうなる?と、心に涙があふれそうになった。

もしかしたら、あのときの私なら、彼を救うことが出来たのかもしれない。

「お互いに頑張ろうな」

彼の求めた心からの握手に、私はちゃんと手を差し出したのか、今も私は思い出そうとしている。

きっと彼なら、
笑顔で教えてくれるであろうその答えを
今も私は思い出そうとしている。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一