心、見える人。

ある日のこと。仕事中に、なぜか何をやるにも、何もする気にもならずに、なんとなくぼんやりしていたら、突然に声をかけられた。

「なんか・・・元気なくないですかぁ?」

変な日本語ではあるけれど、19才の彼女の言葉には、とても優しさがこもっていた。でも、その言葉よりも、もっと不思議に思ったことは、それまで彼女とは、ほとんど話をしたことがなかったことだった。

なのに私のことを心配してくれている。そう思うと・・・なんか、くるものがあった。うまく言えないけど、突然こんなふうに優しくされると、どうしていいのかわからなくなる。心はまるで気まぐれみたいに、時を行ったり来たりしながら未来も過去も自由に変えられる。現実に大きく歳が離れていたとしても、心に決まった歳なんてない。

「僕のこと?」と気付けば私は聞き返していた。「うん」と彼女は小さく答えていた。「ほんの少しだけ疲れてるのかな?」と私はちょっと苦笑いしながら、そんなふうに適当に答えた。彼女はほんの少し笑い声を立てて、そしてまた、お客さんのレジをしていた。

その仕草や言葉や態度から”あぁ、彼女はきっと、人の心が見えるんだ”と私は思った。時々私は自分の心が、きれいなガラスを透かして見るように見られていることに気付くときがある。

久しぶりにそんな人を見つけた。もちろん、それが恋だとか、特別な感情だとか、そういったものではない。ただ、心が見えるという特別な意識。私の中の見えないものが、どこか守られているような安心感。うまく言葉には出来ないけれど・・・いつも、本当に大切なことは、うまく言い尽くせないものだ。

しばらくして、少しだけお客さんが少なくなったとき、また、私は後ろから声をかけられた。

「疲れてるときは、甘いものがいいんですよ」
それは、また、あの彼女だった。

差し出した彼女のその手のひらにはペコちゃんの包み紙に包まれた、小さな飴玉が一個あった。

「あ、でも、飴玉は嫌いでしたっけ?」

彼女はちょっと”失敗したかな?”と
小さく不安そうな顔をして私に言った。

「いや、大丈夫、頂くよ」と私は言って、そっとその飴玉をポケットにしまった。そんな私に安心してか、小さな笑顔とともに「いらっしゃいませ」とまた、彼女はレジに戻っていった。

それは、わずかな時間の出来事だったけど、何よりも私が驚いたのは、私が飴玉が苦手だということを、彼女が知っていたと言うことだ。確か、みんなと何かの雑談の中で、そんなことをしゃべった覚えはあるのだけど、それは随分と昔のことだし、彼女に言った言葉でもない。

なのにそれを、ごく自然に覚えていてくれた。

それが私には、うれしくて、うれしくて・・・正直に言うと、ほんの少しだけ彼女を抱きしめたくなった。(もちろん、そんなことをしちゃダメだ。)突然に、こんなふうに優しくされると、自分が誰だが忘れそうになる。自分じゃない誰かのことを、この人はきっと間違えて、私に優しくしてるんじゃないだろうか?とさえ私は思い疑い深くなる。

そんなふうに思う度に、自分がひどくイヤになって、なんの曇りもない優しさに対して、ひどく申し訳ない気持ちになる。誰も心配なんかしてくれてない、と思っていても、どこかで誰かが心配している。

自分が思うよりもきっと、人は優しく、少しだけ哀しい存在なんだ。いつもはそんなこと、まったくしないのに、彼女のことを、ちょっとだけ眺めてみた。

そこにはいつもと何ら変わりはしない小さな笑顔がちょこんとあった。私は少しだけ元気になった。明日がなんとなく、見えるような気がした。こんな私でも私の心を、見ていてくれる人がいる。そう思うと、何かを信じられるような気がした。

そんな私のポケットの中で
今も飴玉は、ずっと私を励まし続けている。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一