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死を想うことは、生きるを想うこと。

死に方を時折、想うことがある。いや、違うんだ。別に死にたいわけではなくて、むしろ、その逆でモーレツに私は生きていたいんだ。

ただ、時々こう思うのだ。もしも、なす術もなく死が近づいてきたとき、私はどんなふうに死んでゆくのだろうか?いや、そうじゃないな。どうやって死のうかと、旅行のプランを考えるように、私はふと、物思いにふけるのだ。

昔見た映画のラストシーンで、こんな情景があった。

主人公の男性が、いろんな困難や裏切りや試練を乗り越えて、ようやく家族や守るべきものたちの平和な日々を勝ち取って、これから幸せな時を過ごすことが出来るとわかったとき。

陽気な午後の陽ざしの中、主人公の子供たちや家族が揃って、外で昼食の準備をしている。にぎやかでとても楽しそうだ。主人公の男性は、少し離れたベンチに座って微笑みながら、それを静かに見つめている。もう年老いていた男性は、やがて誰にも気づかれずに、そっと目を閉じてゆく。

子供の一人が、何気なくその男性に駆け寄ってゆく。そして何かに気づいた家族が、ひとりひとり集まってゆく。そして映画は、男性の魂からの眺めのように、だんだんと空高くへとフェードアウトしてゆく。そんなラストシーン。

とてもいい映画だったし、単純に感動したのだけど、そのシーンを見て私は思った。「あぁ、私もこんなふうに死にたいなぁ」と。

人は生まれ方は選ぶことが出来ないけれども、死に方はある程度、選択することが出来る。もちろん、すべてがそうとは言えない。不慮の事故で亡くなってしまう人もいるし、思いがけない病気で苦しんでしまう人もいる。そんな人の家族やその人自身からすれば、死は最も遠ざけたい現実だと思う。

考え方は人それぞれだ。私はそれでいいのだと思う。ただ、死を想うことは同時に、生きることを思いつめる大切なことなのだと思う。

かなり昔のこと、同じ職場の若い女性から、何気ない会話の中で「私、高校の頃、一度、死のうとしたことがあるんです」と言われたことがある。「たくさんたくさん薬を飲んで、そして、気が付いたら救急車で運ばれて、薬を吐き出して、そして生き返ったんです」と。いつもは明るい彼女だったので、私はとても驚いてしまって、思わず彼女を叱ってしまった。「どうしてそんなことをしたんだ!」と。

今思えば、なぜ叱ってしまったのだろうかと思う。たぶん彼女は、すでに十分に叱られたのだろうし、十分に泣いて十分に死を見つめ、生きることを見つめたのだと私は思う。辛い過去を人に話せるようになったそのことが、その証拠なのだろう。

死について考えても私はいいのだと思う。

私たちは幼い頃から、死についての教育は受けない。人の死亡率は100%だ。必ずだれもが経験するのに、死はどこか悪いこととして遥か彼方へ遠ざけてしまう。

人は必ず終わりがあるから、私は生きてゆけるのだと思う。もしも永遠の命があったとしても、それは人の人生じゃない。人はすべてに終わりがあるから、きっと、あんなに輝けるのだ。恋も夢も小さな希望も。終わりがあるということは、次の新しい何かが始まるということだ。たぶんこの人生も同じことなのだろう。

彼女の唯一の間違いは、それを行動に移してしまったこと。それ以外に、きっと間違いは何もない。かつて死のうとした彼女を叱ったとき、私は後悔してしまって、すぐに言葉を打ち消そうとしたのだけど、そんな私を気づかってか、彼女は私にこう言ってくれた。

「叱ってくれて、ありがとうございます」と。

それはとてもまっすぐな真剣さで、凛とした静かな表情で。そんな彼女を見て私は思った。一度、死を見つめた彼女は、ずっと明日を見つめていると。死を想うことは、生きることを想うこと。私はそう信じている。

やわらかな風が通り過ぎるとき
私はふと、こう想う。

いつか、すべてやり終えた後、幸せな光景を眺めながら、静かに空へと昇りたいと。それがどの未来かは知らないけれども、私の確かな小さな未来だ。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一