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命をかける。

取引先のその人から電話がかかってきた。相手の興奮がすでに電話越しにわかった。その興奮は紛れもなく、怒りによるものだった。

「お前はオレをなめとんのか!」

私は言葉を返せないでいる。

「申し訳ございません・・・」

やっと言えたその言葉は、少しかすれて、うまく声にならなかった。確かに先日、私はその人に対して悪いことをしてしまった。(忙しさに、その人に頼まれていたことを私が忘れてしまってたのだ。)でも、その数日後に、これほど私を罵るほどに、ひどいことになるなんて、私は夢にも思わなかった。

いろんな言葉で私を責める。まるでその口調は昔のドラマであったような借金取りみたいだ。私はその怒鳴り声を聞きながら、その人の笑顔を思い出していた。

その人とは、月に一度程度、仕事の関係で顔を合わせる。あんなに私に対して親切で、丁寧で、優しい人が今はその電話口の向こうで、私を殺しかねないほどに怒り、ひどい言葉で私を責め立てている。

私はそれがとても不思議で、電話を耳に当てたまま斜め前の天井を、ぼんやりと眺めていた。言い訳したい気持ちはあったけど、そんなことしても何の解決にもならないことはすでに目に見えている。私に出来ることは素直にただ、謝ることだった。

その人は言った。
「俺はこの仕事に、命、かけとるんじゃぁ!」

その言葉は、私の胸に突き刺さった。

仕事に命をかける・・・

私は自分の仕事に命をかけるほどのことはしていない。いや、それが今の時代では、普通のことかもしれない。たとえ、私が適当な仕事をしたり、休んだりしてもちゃんと給料は入ってくる。けれどもその人の場合、そんなことをしてしまえば、まともな給料はたぶん、入らない。

その違いを、私はまったく意識してなかった。

必死でがんばっている人に、がんばってもいない私のことで無駄にしてしまったそのことに、私はショックを隠せないでいた。お金のことなのに、あまりにも単純に考えてしまって、そのすべきことを私は、ただ、後回しにしてしまい、そして忘れてしまったのだ。

あんな笑顔を作れる人に、私がこんなに怒らせている。少し泣きたい気持ちになる。なのに怒鳴り返したい気持ちがあふれる。

どうすればいいのかわからなくなる。

結局、私は黙ったまま、いくつかの「申し訳ありません」をただ、伝えただけで、何も出来なかった。その人の声が、少しづつ小さくなる。そしてその人は言った。

「もういい・・」と。

何がもういいのか?
許してくれたということか?

私はうまく物事が考えられなくて、知らない街で迷子になったような不安が押し寄せる。

そして、最後にその人は言った。

「また、来月に会うことになるけど・・・」

会うことになるけれど。

その先が、私はうまく思い出せない。

会うことになるけれど
会うことになるけれど・・・

なんだろう?この気持ちは?ぶつけてしまったこの気持ちは、ぶつけられたこの気持ちは、どう対処すればいいだろう?その人も同じことを、そのとき思ったのだろうか?

会うことになるけれど・・・。

たぶん、あんな笑顔で、もうその人とは会えないだろう。それが私は寂しくて、そして悔しくてたまらない。人はこうして簡単に、過ちを犯してしまうんだろう。私はちゃんと謝れるだろうか?ちゃんと大人の態度として、その人に接することが出来るだろうか?

一所懸命なあの人に
命もかけないでいる私は。

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最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一