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戦争と朝のゴミ出し。

昨日が911だったことに今日になって気が付いた。時の流れとはそういうものなのかと少しだけ途方に暮れている私がいた。

そんなとき昔の日記から、こんなことを思い出していた。

「ねぇ、お母さん、ここは戦争は無いんだよね」

当時、6才だった息子のゆーくんは、そう言うと、ゆっくりと、妻に抱きついてきたそうだ。

仕事から夜遅く帰ってきた私に、彼女は晩ご飯のおかずの温め直しをしてくれながらも、たぶん、最初に私にこの話をしようと心に決めていたのだろう。その言葉には、ひとつひとつ、何か重さがあるように思えた。

別にゆーくんのその言葉の前に、特に戦争のことを話していたと言うわけでもなく、それはごく当たり前の本当にいつもと同じで、しかも誰もが普通に迎える夕暮れどきのことで。

それでも息子はその小さな体に、そんな不安を溜め込んでいたのだろうか?そんな言葉を、まだ6才の息子が言うなんて・・・。息子のその言葉に、私は思いがけずとても切なくなっていた。

「たぶん、あの時ね・・・」

彼女がポツリと何かを落とすように言った。

あれは連続テロ事件の特別番組があった時のこと、私たち夫婦は、まるで息が止まるような思いでそれを見ていたのだけれど、たぶんあの時、ゆーくんもあの映像を知らないうちに見ていたのだろう。

私はてっきり寝ているものと思っていたのだけれど、少しだけ配慮が足りなかったかととても反省をした。それにしても、あんな小さな息子の心に、そんな見えない恐怖を芽生えさせてしまったなんて、なんだかやり切れない気持になった。

「だからね、私はこう言ってあげたの。
”大丈夫よ、ここでは戦争なんてないわ”ってね・・・」

そんな小さな痛みの中にも、何か希望を見出したかのように、彼女のその声が、なぜか不思議と少しだけ明るさを帯びたような気がした。

そして、ゆーくんはこう聞いてきたのだそうだ。

「でも、どうしたら戦争ってなくなるの?」

すると、彼女は「う~ん、そうねぇ、難しい話ねェ。でもね、これだけは言えることがあるわ」と悩みながらもそう言ったそうだ。

「え、それって何?ねぇ、お母さん」
その言葉に、息子の目の輝きが、なんだか思い浮ぶようだ。

「それはね、ゆーくんがね、遊んだら片付けることを、きちんとすればそれでいいとお母さんは思うわ。つまりね、当たり前のことを、当たり前にすることよ」

ゆーくんは、まったくと言っていいほど後片付けが出来なかった。それはもう、ひどいものでゆーくんが歩いた後は、まるで”しし神さま”(もののけ姫に出てくる神様)が歩いたかのように、ぼわっと草が生えた(おもちゃを出した)かと思うと、すぐにバラバラっと枯れ果てて(部屋が散らかって)ゆくのだ。

「お片づけが出来ないのは、ひとつの悪いことよね。どんな小さな悪いこともなくすことが、戦争をなくすことと同じだとお母さん思うわ。だから、ゆーくんもひとつひとつ悪いことをなくそうね」

そう言った彼女の言葉が、何かのたとえだったとしても、それが正しいのかそうじゃないのか私にはわからないし、戦争と言うものは、それほど単純じゃないし、ましてや、後片付けなどと比べようもないものなのだろうけど。

仮にどこかの教育評論家に言わせたとしたら、”そう言う見方の間違えたものの言い方は子供の成長過程においても、偏見と混乱を促すものであり・・・などと、ワケのわかんない、まるでちんちくりんなことを言われるのかもしれない。

でも、少なくとも私は間違ったものの見方だとは思わない。

ただ、ひとつだけ言えることは、ちゃんとゆーくんのその心に、家族にとって大切なものが、なんらかの形で芽生えたことだ。そして私たち夫婦が、それをはっきりと知った事実だ。

しばらくしてゆーくんは、さっきまでの暗さもどこへやらで、彼女に元気よくこう言ったのだそうだ。

「お母さん、明日の朝のゴミだし、僕も手伝うね!」

「ありがとう!ゆーくん!お母さん、とってもうれしいわ!」

”戦争と朝のゴミだし”

何の因果でこうなったのか、まるでワケがわからなくなるけれど、それでもなんだかうれしいような、こんな気持ちになっている。まんざら間違ったことでもなさそうだ。

今日の私みたいに、いつしか忘れてしまいそうだけど、私たちの日々は、いつも誰かに守られている。

みんながみんな、当たり前のことを
いつも当たり前にしていることで。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一